テレビをみる行為は受け身なのか?
今日ではテレビをみることは多くの人にとって習慣のようなものになっているのではないでしょうか。毎朝出勤前にニュースをみたり、なんとなく寂しいからつけっぱなしにしてみたり、録画したお笑い番組を見たり、アニメをみたり、、、家族に「何もしてないでテレビばっかり見て!勉強しなさい!」などと言われる方もいるかと思います。
今回はこのテレビをみるという行為は本当に何もしていないのか(受動的なものなのか)についてナムジュンパイクのTVブッダ (1974) という作品をもとに考えてみます。*注意された時の揚げ足取りに使うのはダメですよ…笑
では早速、ナムジュンパイクのTVブッダの紹介です。この作品はブッダの像がカメラを通じてテレビモニターに写った自らの姿をただ前にしている、みているというものです(あまりうまく説明できないので是非ググってみてください)その姿は一見、私たちがテレビをみている姿となんら変わりません。ずーっと受動的に流れる映像をみているだけです。
しかし、よく考えてみるとテレビの前で我々のみているものの情報性はとても高いです。座っているだけで特に何もしていないのに、情報を自分で調べに行ったわけでもないのに、今日の天気は知れるし、コロナウィルスの危険性と予防策は知れるし、そしてそれに従ってステイホームの日々やし…。となると、テレビを見る行為そのものは受動的でも、テレビを経由して入ってくる情報はものすごく能動的なのでは…!?
悟りを開いたブッダも一見、テレビの前の我々と同じで動かずに受動的に見えます。しかし、ブッダはその受動的であることを能動的におこなっています。これはテレビを見ながら積極的に情報を得ようという態度の人々のおこなっていることと共通点があるように感じます。一方で、全く聞き流している人もいるわけですから、見た目では実際の能動性・受動性は測れないものなのかもしれません。
もしかすると、見る番組を選んだ時点から私たちはテレビをみるという行為にに能動的に関与しているのかも…。とにかく不思議な感覚です。
オンライン授業でパソコンに向き合う時間の長くなった今日では、身体的に学校での授業という行為に関与できないので、自ら意識をして、受動的に見流すのではなく、ぜひ能動的に学びたいですね。とはいえ、オランダの授業を日本から受けているので夜中3時まで授業がきついです。
どうしてもきつい時は自分に対して
「私は能動的に受動をおこなっているのです。」
と言い訳したいです。
とはいえ心配性の塊のような人間なので罪悪感・不安が強過ぎて眠りませんが、、、
以上、結局なんやねん的な考察でした。
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