The Hideout-6
「それでメスの個体をクローン化できない問題をどう解消したんです」
切林直樹が水筒から温かい麦茶を一口飲んでから言う。一人暮らしだが几帳面で倹約家の切林は弁当持参の昼食だ。研究室の一角の談話スペースには、テーブルと椅子が並ぶ中に簡単な湯沸かし器があるだけだ。あとは研究所の一階にある食堂へ行くか、購買で何か買ってくるしかない。
「立案したのは僕じゃなくて原さんだけどね」
そう言いながら湯沸かしを傾けてコーヒーの粉を湿らせるのは新田秀明。その隣で出水倫治がもくもくとゼリー飲料を吸っている。ともに一人暮らしと聞いたが、新田は簡単に握り飯とゆで卵を食べ、ドリップパックのコーヒーを淹れて食後を楽しんでいるのに対し、出水のほうは手元にまともな食事らしいものがない。ゼリー状の栄養補助食品と、カロリー補給用のビスケットのようなものを食べるだけだ。あとはペットボトルの水を飲んで、これが昼食ということになるらしい。
「出水さんそれで足りるんですか」
「理論的には大丈夫!」
「出水はもうずっとこうだから」
新田が困ったように笑いながら切林に言う。出水はまったく気にすることなく、自分の端末で電子書籍を読みはじめた。
「なんの話だっけ、そう……、僕らの手法ではオスのクローンしか作れない状況で、HICALIはメス個体が欲しかったのに、どうやってオスから今のあの子を作ったのか、という部分か」
「はい。あと、新田さんは最初にあの個体はパーツを組み立ててロボットのように作ったとおっしゃってましたし」
「ああ、それはね……、脳と心臓だけは組み立て式では無理だったんだ。この二つは同じ系列の細胞からできていて、でき方がちょっと変わっている。どうしても僕らの実験では完全に発生させることができなかった」
できあがったコーヒーに新田は砂糖もミルクも加えない。淹れたてをほとんど冷まさずに口にする。その横で、端末から顔をあげずに出水が早口で続けた。
「だからそこを中心に自力で成長するメインの個体はやっぱり必要になってたわけ。そいつがある程度仕上がってきたら、不足パーツを3Dプリンタで出した足場ベースに培養して作って、あとは組み合わせたらできあがり。だいたい、全体をembryoから赤ん坊になるまでみっちり発生させてたら、そいつがあの大きさの女の子になるまでに18年かかっちゃって話になんないし」
「じゃあ、性別の問題は」
「オスを元に性別転換してメス個体を作るんだ。ここまで編集してたらもはやクローンと呼んでいいのかわからないけど、まだ適切な名前がないからね。元のオスのY染色体から、性決定因子SRT-Tを除くとメス化する。これで一応は完成だ。とても実用化できるような肯定じゃないけど」
「それでも、実際あの個体は完成して、あそこで維持されているんですね」
「まあ、本当に実現するのか証明しなくちゃならなかったしね」
新田はそう言ってマグカップの中の液面を見つめる。こんなほとんど非合法なプロジェクトに加わって実際に人間の細胞を使った実験までしているわりには、新田に人並みの生命倫理が備わっていることが哀れだな、と切林は思う。
「あれ、そういえば、あの個体のそもそものドナー……、元になった細胞ってなにを使ってるんでしたっけ」
「市販されてる実験用に均質化されたやつだからな。樹立した時の大元の提供者の身元なら参照はできるけど」
出水がラムネ菓子を懐から出して齧りながら応じた。新田はなにも言わない。
法的整備も間に合わない状態で秘密裏に行われているヒト細胞由来の個体作成実験なんて、それに同意して細胞を提供してくれる人間などいるだろうか。そもそもその人にこの実験の概要を知らせるわけにもいかないわけだし。もう亡くなっている人の細胞だったらいいのかな。そんなことを思って切林が視線をさまよわせていると、十三時を知らせる所内放送が鳴った。
「もうこんな時間かあ。細胞部屋に行ってきます」
切林はサンダルを鳴らして廊下を小走りに行く。その後ろ姿を見ている新田を見やり、出水が表情を変えないまま頭を掻いて小声で言った。
「切林には内緒なんだろ。ヒカリが新田の細胞由来の個体だってこと」
新田は目を伏せてしばらく黙っている。手元のマグカップのコーヒーはすっかり冷えて湯気も香りもなくなっていた。
「原さんの厳命だ。原さんと、僕と出水だけしか知らない。知る必要もない」
「俺たちこのプロジェクトに深入りさせられて、このあとどうなんだろ。国家機密じゃん。死ぬまでCeRMS所属かな。そのうち転属禁止とか妻帯禁止とか言われるぞ」
出水がおもしろくもなさそうに言って伸びをする。冗談になっていない。新田は力なく微笑んで立ち上がると、出水に軽く手をふって実験室に向かった。