『第43話』任存城防衛戦:戦勝祝いの裏で
その夜、任存城にて戦勝祝いが行われた。
任存城は歴史ある山城で、敷地も城館も広く、内装もそれなりに趣向が凝らされている。
軍事施設としての能力のみを追求した周留城とは違い、客を招いても恥ずかしくない造りになっている。
兵は城の外で陣を組み、見張りを立たせて休息している。
唐軍を退けたとはいえ、袁孟丁も、蘇定方もまだ生きているため、完全に気を抜いて休む者はいない。
その間、彼らを率いる将たちは、城館の大広間にて酒宴を行っていた。
宴を仕切る席に座っているのは黒歯常之だ。
本来なら城主の遅受信が座る席だったが、遅受信は逃げる袁孟丁を追っている途中で矢に射られ、落馬して負傷していた。
大事にはならなかったが、安静が必要ということで、代わりに黒歯常之が諸将を労うこととなった。
「本日の戦、皆様におかれましては、唐の軍勢を退ける見事なお働き、まことに感謝いたします」
盃を持った黒歯常之が挨拶を行う。
一同は広間で向かい合って列を作って座り、黒歯常之はその最奥に座っている。
「城主の負傷という憂き目には遭いましたが、城を包囲していた袁孟丁、援軍に駆けつけた蘇定方をともに敗走させたのは、我らの力に他なりません。今宵は酒とともに、存分に疲れを癒していただきたい」
挨拶を締めくくり、黒歯常之は盃を掲げた。
諸将も自分の盃を掲げ、乾杯した。
この広間にいるのは倭の将だけではなく、百済軍の佐官、つまり将に準ずる位の人間も参加している。
両軍の参加者を合わせれば、三十人を超える。
中でも勢いよく酒を飲み干しているのは、遅受信とともに籠城していた佐官たちだ。
何日にも渡って昼夜問わずに城を攻められ、飢えに苦しみ、少なくない味方が死んだ。
そのため彼らは勝利をひと際喜び、酒を飲む調子は早い。悲しみを紛らわすというよりも、やっと解放されたという想いから来る反動だった。
「一時はどうなるかと思ったが、袁孟丁め、尻尾をまいて逃げていきおったわ!」
ある百済の佐官が言い出すと、つられて別の人間が「そうだそうだ」と返した。
「豚のように肥えたあの男が、我らの城を囲んで籠城するなど、物笑いにもならんぞ!」
「それに見たか? 袁孟丁は我らの逆襲に怯え、逃げる途中で崖から転げ落ちていた。あの姿は、肉屋に捨てられる豚と同じだったな!」
よほど鬱憤がたまっていたのか、百済の男たちは盛大に酔って笑い転げる。
一方で、倭の諸将は静かに酒を飲み、料理に口をつけていた。
こういった酒宴に慣れていないというのもあったが、今日の倭軍は蘇定方と戦っていた。
大慌てで逃げた袁孟丁とは違い、蘇定方は反撃の力を残しながら、疾風のごとく撤退した。
それを肌で感じた倭軍としては、勝った気分に浸れなかった。
それに今夜も油断できない。
まだ蘇定方の軍が近くに潜み、夜襲をかけてくる可能性も捨てきれない。
戦闘が終わった後、蘇定方がいた陣を訪れても誰もいなかったが、あれほど機動力のある軍ならば、離れた山の中から再び現れることもあるだろう。
「……そういえば、博麻どのはどうされた」
黒歯常之が言うと、倭の一同が薩夜麻の隣を見た。
言われてみれば、博麻はそこにいなかった。
人数分の酒と料理は用意されていたが、末席の一人分だけ余っていた。
「疲れていた様子だったので、休ませております」
薩夜麻はそれだけ答えて、酒を一口飲んだ。
今や事実上、薩夜麻の右腕として見られている博麻がいない。
倭の諸将と黒歯常之はそれを不思議に思ったが、薩夜麻は何事もなさそうに静かに酒を飲み、料理を口にしていた。
兄貴には触れないで、そっとしてほしいという態度だ。
それから宴は何事もなく終わり、黒歯常之がお開きの宣言を下し、将たちはそれぞれの陣に戻っていった。
宴が終わり、城も、その周囲も静かになった。
男たちは、今日も殺し合いを生き延びたことを感謝しながら、眠りに落ちた。
城を出て、少し斜面を登れば、山の頂上に至る。
山の頂上には小さな広場があり、木は伐採されている。
そして反対側の斜面に落ちないために、膝の高さまで石が積まれている。
この広場に立てば、綺麗な月が見える。
木にさえぎられない、隠れた絶景だ。
博麻はそこにいた。
景観を楽しむわけでもなく、ひたすら虚空へ斧を振っていた。
十一月の夜は冷える。
風は冷たく、乾ききっている。
しかし博麻は上半身をさらけ出し、汗をしたたらせながら、浴びかかる冷たい風を切り裂くように、激しく斧を振り回していた。
型どおりの素振りではなく、見えない何かに向かい合っているような、鬼気迫る動きだった。
彼のそばにラジンはいない。
彼女にも「一人にしてくれ」と言って遠ざけて、ここで黙々と素振りしている。
「ここにいたか」
斜面の方から声が聞こえた。
博麻が振り向くと、斜面を登って来た人間の姿が、少しずつあらわになっていく。
現れたのは黒歯常之だった。
鎧を脱いだ、ゆったりとした着物姿だ。
「宴にも現れず、こんなところで稽古とはな」
黒歯常之が話しかけても、博麻は何も答えず、目を背け、素振りを再開した。
しばらく博麻の動きを見てから、黒歯常之は失笑した。
「気を紛らわせたいのか。健気な男だな」
「なんだと?」
博麻が手を止め、顔を向けてきた。
「大勢を殺したという恐怖を忘れたい。自分の中にある、嫌な気分を振り払いたい……言葉を発さなくても、見ればすぐにわかる」
それから黒歯常之は笑い声を上げた。
何がおかしい、と博麻は思った。
黒歯常之がどれほど戦を経験したか知らないが、今の自分が抱えていることを笑うなど、ひどい侮蔑だった。
「そういうあんたは、どうなんだ」
博麻はひたいの汗を手首でぬぐってから、黒歯常之に近づいた。
「今ここで、恐怖を味わってみるか」
双斧を握って近づく博麻が、にわかに殺気立つ。
その瞬間、にやっと笑いながら黒歯常之は飛び退いた。
博麻が鋭く踏み込み、右の斧を振るう。
直前まで黒歯常之が立っていた空間を、斧の刃が切り裂く。
一太刀目はかわされたが、博麻は気にせず構え直した。
「くくっ、そう来なくては」
楽しそうにつぶやく黒歯常之に、博麻の苛立ちは強くなっていく。
この男の意図は読めない。
自分に対してなんらかの興味は抱いているらしいが、腹の中に何を抱えているのか、見当がつかない。
それとも深い意味はなく、悩む姿を面白がっているだけなのか。
それでも博麻は斧を納めない。
挑発めいた態度に引っかかる自分も自分だが、少なくとも黒歯常之という男に一泡吹かせてから、斧を納めようと決めた。
「怖くなったら、さっさと逃げてみろ。それとも、あんたが健気な態度で謝ってみるか」
黒歯常之は微笑みながら首を振った。
「逃げるなんてとんでもない。このまま相手をさせてもらおう」
黒歯常之は武装していない。
鎧はもちろん、刃物すら持っていない。
それでも黒歯常之は指を何度か曲げて、かかってこいという合図を見せてきた。
「そうか。後悔するなよ」
再び博麻は踏み込む。今度は斧を下に構え、胴体を斬り上げようとした。
黒歯常之は半身になって、それをかわした。
そして彼が足をぱっと上げると、棒状の物体が博麻の目の前に現れた。
「なっ」
博麻が声を上げた時には、手遅れだった。
黒歯常之は足で持ち上げた棒状の物体をつかみ、そのまま博麻のみぞおちを突いた。
みぞおちを突かれた博麻は後ろへ吹き飛ぶ。
とっさに自分から後ろに飛んだが、それでも激痛が走った。
吹き飛んだ博麻は、そのまま急斜面に落ちていった。
枝を折りながら転げ落ちて、バキバキという音が立て続けに鳴った。
それを見た黒歯常之はさすがに心配になり、急斜面に近づいて、その下をのぞきこんだ。
しかし彼の眼前に、木の枝が飛び込んできた。
「うおっ」
すぐさま身を屈めてかわしたが、その間に博麻が斜面を駆け上がり、上にいる黒歯常之に飛びかかった。
黒歯常之は避けられず、博麻に組み敷かれる体勢になった。
彼は地面に倒され、上には二本の斧を握った博麻が乗っている。
「わかった、わかった、俺の負けだ」
「……なんだと?」
「そのままの意味だ。俺が降参して、お前が勝った。それだけだ」
この諦めの言葉に、博麻は釈然としない想いもあったが、戦う気がなくなった相手を痛めつける趣味もない。
しぶしぶ立ち上がって黒歯常之を解放し、斧を納めた。
黒歯常之も立ち上がり、着物についた土を払った。
「博麻よ、少しは気が晴れたか?」
「は?」
黒歯常之は薄く笑い、博麻は眉をひそめる。
「部下からもよく言われることだが、俺は気遣いが苦手だ。相手が困っていようと、傷ついていようと、関係なしに思ったことをそのまま口にしてしまう。今のお前にも、同じことをしてしまった」
「あんたの場合、知ってて直さないだけでは?」
「それもある」
開き直った黒歯常之を見て、博麻はため息をついた。
それから二人は無言だった。
博麻はみぞおちを手で押さえていたが、ふと、自分のみぞおちを突いた物体が気になった。
「さっきの、あんたが地面に伏せていた武器はなんだ?」
博麻が問うと、黒歯常之は草むらの近くに転がっていた長柄の武器を拾った。
「これだ」
夜だったために、はじめは固い木の棒かと思ったが、黒歯常之がその物体を掲げると、先端に大きな刃が付いた武器だとわかった。
「なんだ、これは」
「斬馬刀という。その名の通り、馬ごと敵を叩き斬るための武器だ」
黒歯常之は斬馬刀を振り上げ、誰もいない場所に向かって素振りした。
重く、それでいて、激しい風切り音が鳴った。
それを見ていた博麻は、ある事実に気づいた。
黒歯常之がその気になれば、刃がある方で博麻の胸を突くこともできた。
わざわざ博麻を挑発し、地面に伏せておいた斬馬刀を使ったということは、前もって刃がある方を手前にして置くこともできたはずだ。
「俺が挑発に乗るのも、予期していたのか」
「そうだ」
答えた黒歯常之は、構えていた斬馬刀を持ち直し、石突きを地面につけた。
「博麻、少しばかり俺の話に付き合ってもらって良いか」
丁寧に断わりをもらおうとする黒歯常之に驚きつつも、博麻は「ああ」とうなずいた。