第59話『快刀』
こうして一隻の船が脱落し、残るはあと一隻となった。
仲間の船が負うのを止めたことで、もう一隻の船に乗る唐兵たちにも迷いが生じた。
しかし残る一隻の船は、追うのを止めなかった。
「まだ諦めないか」
豆麻は再び石弓を使おうとしたが、さすがに相手も盾を構え、船体の部分を守ろうとする動きを見せ始めた。
それを見て、豆麻は眉をしかめた。
上手く狙えば船体を破壊できるかもしれないが、ここまで警戒されてしまえば、十中八九は防がれるだろう。
「良いわよ、豆麻」
そこでウンノは、夫の肩を叩いた。
「ここまでやってくれたら充分よ。あの一隻だけなら、いくらでも料理できる」
「わかった……けど、無理はしないでほしい。君に何かあったら、僕は」
「もちろんよ。あなたは、ここでしっかり見ていてくれれば良い」
ウンノは剣を構えた。
「富杼、私がまずは場所を作る。それから飛び乗って」
「ええで。存分にやってこいや」
ウンノの指示を受け、富杼はうなずいた。
矢を最大限に警戒しながら、唐船がだんだん近づいてくる。
もう少しで倭国本土に着くところで、ついに唐船に追いつかれた。
お互いの乗員の顔が判別できるほどの距離だ。
「さて……行くよ!」
ウンノがそこで船の縁に足をかけ、高々と跳躍した。
唐兵たちが矢で迎え撃つ間もなく、彼女は飛び乗った。
「しゃあっ!」
その直後に、二人の唐兵がウンノの刃の餌食になる。
彼女の太刀は鋭く、狡猾にすべり込む。
とっさに避けようとしても、防ごうとしても、無意味に終わる。
唐兵は武器を構えて、身を守ろうとしていた。
必死に防御しようとしていた。
だが、彼女の刃は、唐兵たちの頸動脈を切り裂いた。
歴戦の傭兵に「天賦の才」と言わしめた彼女の剣才は、まったく錆びついていなかった。
「な、何をしておる! たかが女一人だ! 殺せ!」
隊長らしき男が怒鳴ったが、そこで富杼が唐船に飛び乗ってきた。
巨漢の富杼が飛び乗ってきたことで、船がぐわんぐわんと揺れる。
「さあて、白村江の戦以来の殺し合いやな……唐兵どもよぉおおっ!」
富杼が叫びながら突っ込み、唐兵を蹴り飛ばす。
前蹴りで唐兵の体は勢いよく吹き飛び、海に落ちて水しぶきを上げた。
「よっしゃよっしゃ、まだまだいくでええっ!」
富杼は素手のまま、唐兵たちに襲いかかる。
目の前の敵は細身の女と、丸腰の大男だけだ。
しかし唐兵たちは、恐慌状態に陥っていた。
彼らは若い兵が多く、大きな戦を経験したことはない。
ましてや敵味方の死体がうず高く積み上がるような、地獄のごとき戦場など、彼らは知らない。
それが大きな差だった。
富杼もウンノも、その死線を乗り越えた者たちだ。
ためらいなく人を殺し、己の命を死地にさらす。
その覚悟を持って刃を振るい、拳を放つ二人は、若い唐兵たちからすれば鬼のような怪物だ。
「あなたで終わり。これもおじさんの仇討ち」
最後に残った隊長と、返り血にまみれたウンノが向かい合う。
隊長の男は恐怖で青ざめていたが、剣は構えている。
「こ、このおおおおっ!」
隊長が吼え、ウンノに向かって剣を振り上げる。
ウンノはそれをかわしながら、手首を斬り落とす。
剣とともに、手首が甲板に転がる。
勢いよく血潮が噴き出て、甲板に新たな血だまりを作っていく。
「ぎゃぁああっ⁉」
いとも簡単に手首が切断され、隊長は身もだえした。
その隊長のそばを、ウンノが通過した。
数秒後、隊長の首がずるりと落ちて、体とともに地面に転がった。
「お見事」
薩夜麻はそう一言、彼女の武を称えた。
そして、感慨深い想いを抱いた。
豆麻にも、ウンノにも、博麻のような意志や強さが受け継がれている。
博麻の生死はわからない。
だが、彼の魂は間違いなく不滅なのだと、薩夜麻は確信した。