第50話『裁判』
後日、博麻は身を清められ、それなりに清潔な平服を渡され、着替えるように言われた。
法廷の場に出る日だ。
牢を出ると、いつもより朝日がまぶしく感じられた。
手枷につながれた状態のまま、博麻は衛兵とともに法官の屋敷へおもむき、裁判を行かう大広間に通された。
通された先は縦に長い大広間だった。
左右には大勢の官僚が並んで座り、大広間に現れた博麻に視線を集中させる。
なお、ここに集まった人間はすべて政界でも名が通った者ばかりだ。
そこには皇后派、皇帝正道派、中立派など、様々な派閥の人間が入り混じっている。
皇帝正道派の関玲、王毫も同席しているが、皇后派の中に黒常の姿はない。
先日の王毫が言っていた通り、黒常は傷の手当てを受けながら謹慎しているらしい。
広間の中央にいる博麻に対し、嫌悪、侮蔑、好奇の視線が集まる。
だが、博麻は動じることなく、背筋を伸ばしてあぐらをかいた。
「あれが噂の、刺青の倭人か」
「なんなのだ、あの態度は。無礼にもほどがある」
「死ぬとわかっていて、粋がっているのだ」
「いや、王毫殿が何やら取引を持ちかけたらしいぞ。それによっては、逆にあの黒常の方が罪になるやも……」
「ふん、所詮はあやつも百済生まれの蛮族よ。さっさと打ち首にしてしまえば良いものを」
権力者たちの前で堂々とあぐらをかく態度を見て、さらに嫌悪と好奇がぶつけられ、多くはひそひそと話し合う。
「静粛に」
広間の右手奥に座っていた官僚が、声を張った。
列席している高官たちも、会話を止めた。
「これより裁きを行う。ただちに罪人は平伏し、それ以降は、法官殿のお言葉に従って発言するように」
博麻は言われた通りに、頭を下げた。
そこで法官が現れる。
年老いているが、ぎょろりと大きな眼をしており、鼻は太く、唇は厚く、まさに法の番人たる威風堂々とした巨漢であった。
「罪人は面を上げよ」
博麻は顔を上げて、法官を見据えた。
法官は博麻の目を見て、不思議な感情を抱いた。
彼は今まで、数多くの罪人を裁いてきた。
自分の罪を軽くしようと嘘の涙を流す者、悪あがきして釈明する者、逆に開き直って自分の罪を正当化しようとする者など、様々だ。
だが、博麻の表情と態度は、それらのどれにも当てはまらない。
こちらが見下ろして裁く側だというのに、なぜか見下ろしている気にならない。
「……罪状を読み上げる」
法官は努めて平静に、いつも通りの仕事を行うことにした。
どんな人間であっても、法は絶対であり、罪から逃れることはできない。
その想いをより強固にして、職務に臨む。
「十日前の夜、そなたは治安長官である黒常殿の屋敷を襲撃し、屋敷に放火した。同国人の捕虜を逃がすために、屋敷に駐在していた衛兵たちを殺傷し、黒常殿を人質にとり、その翌朝に捕縛された……内容に相違ないか」
法官の問いかけに、博麻は黙ったままだった。
その様子を見て、皇帝正道派の関玲、王毫たちはニヤリと笑った。
皇后派の人間も、どこか固唾を飲んで見守っているような雰囲気だ。
彼らは待っているのだ。
博麻が、黒常に不利な証言をしてくれることを、待っているのだ。
それさえ言えば、こちらが助け舟を出してやるぞと、そう取引したのだから。
「いいえ、相違ありません」
博麻が答えた途端、空気が凍りついた。
皇帝正道派の関玲、王毫はもちろん、皇后派の中でも黒常の排除をもくろんでいる者も、博麻があっさりと罪を認めたことに絶句した。
特に王毫の怒りと戸惑いは凄まじく、顔は紅潮し、見開いたまぶたは痙攣し、真一文字に結んだ唇も震えてしまっている。
この場で騒ぎ立てることだけはこらえたが、博麻に対して噛みつくような視線をぶつけてくる。
博麻は王毫の持ちかけた取引に応じて、黒常にとって不利な証言をする、と約束したはずなのだ。
その約束を、いきなり反故にされた。
証言一つで裁判がひっくり返ることはないが、博麻の証言をもとにして、参列している高官たちが法官に再審を要求すれば、今日この場で博麻の罪が確定することはなくなる。
そして再審の日までに根回しを完了しておけば、博麻の罪は軽減され、黒常が倭人に指示していたという嫌疑をかけることができたはずなのだ。
「法官様、一つだけ発言してもよろしいか」
突然、博麻が発言を願い出た。
法官も、周りの高官も、戸惑った。
「……良いだろう。ただし、この場にいる人間を不当におとしめたり、またこの罪状に無関係のことをまくしたてるような振る舞いは、厳に慎むように」
「わかりました」
法官の許しを得てから、博麻はゆっくり息を吸い、口を開いた。
「俺は黒常殿のことを、心のどこかでは認めています」
その言葉に、一同は静まった。
「彼は唐帝国の人間になり、味方だった俺たちを厳しく管理してきました。彼を裏切り者だと憎む日もありましたが、彼は自身の立身出世のために、唐帝国に身を捧げていたのです」
博麻が述べる言葉は、黒常という人間に対する想いだった。
しかも憎悪や侮蔑ではなく、そこには一種の賞賛も含まれている。
「知っている方も多いと思われますが、俺は倭国への侵略を止めるために、味方を逃がし、黒常殿と争いました。彼の屋敷に火を放ち、彼と刃を交えました……黒常殿は唐帝国のために、俺は倭国のために、対立したのです」
博麻は一度、周囲にいる高官を見渡してから、また法官の方を向いて話を続けた。
「自分のやったことを正当化するわけではありません。この国の法を犯し、この国の人間を殺し、この国に災いをもたらすことをしたのは、まぎれもない事実です。拷問も、処刑も、甘んじて受け入れましょう」
そして博麻は深々と座礼した。
その潔い態度に、思わず誰かが感嘆の息をもらした。
彼の証言を派閥争いに利用しようと考えた者も、彼のことを野蛮で救いようのない倭人だと敵視していた者も、博麻の覚悟の強さだけは認めざるをえなかった。
これにて裁判は終わった。
ただし博麻に対する求刑は保留され、彼は再び牢に戻ることとなった。
皇帝正道派の関玲と王毫が裏で手を回し、博麻の処刑を保留にさせたのだ。
厳格な法官も、様々な派閥の企みが飛び交う状況で判決を下すのは不適切と判断し、この一件を一度持ち帰り、次は関係各所の意見を鎮めた上で判決を下すことにした。