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第2話『黒常』
ハカマを漢字で書くと、博麻、と書く。
彼は東の果てにある島国、倭国で生まれた人間だ。
倭国は未開の土地である、と唐人は言う。
たしかに唐帝国と比べたら、明らかに文化も、技術も、発達していない国だ。
しかし、まったく脅威ではないというわけでもない。
今から九年前、六六〇年。
朝鮮半島にある三つの国家のうち、『百済』という国が戦で滅んだ。百済の隣国にある新羅という国と、唐帝国が同盟を結び、百済王都を一気に攻め落としたのだ。
唐帝国は軍事国家である。
多種多様な文化を取り込みつつも、武力で小さな国を、民族を、滅ぼすことは当たり前のことだった。
新羅と手を組んで百済を滅ぼしたのも、特別なことではなかった。
そこで突如として現れたのが、倭国である。
倭国は東アジアの最果てにあり、大陸から朝鮮半島、朝鮮半島から倭国へと、文化や宗教が伝わっていた島国だ。
ゆえにあらゆる文化が最後に伝わる国である。唐帝国からすれば、取るに足らない蛮人たちの島国だった。
しかし倭国は百済と友好関係を結んでいたよしみで、唐・新羅の連合軍に戦いを挑んだ。
倭国に滞在していた百済の末王子を、新たな王として立てて、百済の残党ともに唐帝国に挑んできた。
倭国の軍は勇猛で、野蛮で、唐と新羅の軍ですら手を焼いた。
倭軍は装備も戦術も未熟だったが、彼らの果敢な戦いぶりは、唐軍の指揮官も舌を巻くほど、凄絶だった。
そして三年後、六六三年。
倭国の水軍と唐帝国の水軍が激突し、ついに決着した。
決戦の舞台となった場所は、白村江と呼ばれる朝鮮半島の河口。
ここで倭国の水軍は滅んだ。倭と百済は、とうとう負けたのだ。
博麻も倭軍の兵士として戦った。
船に乗って、海を越えて、百済のために三年も戦い続けた。
その末に、彼は白村江で唐軍に捕まった。
捕虜になった彼は、仲間の兵士とともに長安まで送られ、現在も労役にいそしんでいる。あの石運びも、捕虜の身であるがゆえに課せられた、重い労役だった。
「あいつ、帰ってきたぞ」
ある屋敷の門前に立っていた唐人の兵士が、歩いてくる博麻の姿を見つけた。
「日暮れ前に帰ってくるとはな」
「石運び五十個じゃ足りないようだな。来月から七十個に増やすか」
兵士二人は、博麻が予想以上に早く労役を終わらせてきたことに驚いていた。それとともに、博麻が五体満足に労役を終えてきたことに、どことなく不満を抱いていた。
すでに辺りは暗く、空は夕焼け模様から夜の暗さが現れ始めていた。
「よう、ずいぶん早いお帰りだな」
返ってきた博麻に、兵士が話しかける。
博麻は無言でうなずいた。
街の人間なら無礼だと怒るかもしれないが、兵士たちは博麻の不愛想に慣れているため、特に咎めることはなかった。
「ちゃんと石は運んだのか」
博麻は再びうなずいた。
「よし……なら、さっさと通って水を浴びてこい。汗臭くてかなわん」
兵士はそう言ってから、門を開けた。
博麻は門を通り、屋敷の敷地内に入った。
屋敷は大きく、敷地内も砂利が敷かれ、庭園もある。
かなり裕福な人間の屋敷だ。
汚れ切った博麻とは、まったく縁がなさそうな屋敷だ。
博麻はその屋敷へと続く道を歩き、屋敷の前に立つ。
「おかえりなさいませ」
そこに、火の点いた蝋燭を持った、一人の女性が現れる。
屋敷に仕えている下女だが、着物はそれなりに上等で、博麻とは比べ物にならないほど身なりが整っている。
「ご主人様もお待ちです。どうぞ奥へ」
下女に案内され、博麻は屋敷の中に入った。
広々とした廊下は綺麗な板張りで、埃一つ無いほど磨かれている。壁も、天井も、すべてが高級な質感に包まれている。
そのような廊下を、博麻が歩く。
当然、歩くたびに床が汚れる。下履きの砂と汗の塩が散らばり、異臭を残していく。
それでも下女は気にせず案内する。博麻の後ろに続く廊下がどれだけ汚れても、彼女は気にしない。
屋敷の奥にある一室の前で、下女は足を止めた。
「黒常様、博麻殿が帰ってきました」
部屋に向かって下女が声をかけると、返事が返ってきた。
「通せ」
返ってきたのは男の声だ。低いが、張りのある美声だ。
下女が部屋の扉を開け、博麻が入室する。
そこは大きな広間だった。
数十人は入れそうな広さで、まるで小さな国の謁見室のようだった。
その最奥にある上座に、一人の男が座っていた。
この男が、黒常という。
黒常は長身だ。座っていてもわかるほど、背が高く、恵まれた体格をしている。
肌は浅黒く、顔つきは精悍で、目つきも鋭い。
彼を初めて見た人間は、大柄で、美しい狼のように感じる。
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彼はかつて、百済軍の将軍だった男だ。
騎馬隊を率い、縦横無尽に戦場を駆け回る名将として、唐帝国にも一目置かれていたほどの男だ。
しかし倭と百済が敗戦した後、唐軍に投降した。
相次ぐ敗戦、百済軍内の不和に嫌気がさし、彼は百済への忠誠を捨てたのだ。
彼は唐軍の客将として、百済の城を次々と落とすと、さらには倭人の捕虜を監視する役目を買って出た。
百済人である彼が唐帝国に認められ、信頼されるためには、並大抵の行動では足りないからだ。
そして彼の現在の肩書は、長安の治安を守る警察長官である。元々敵国の生まれで、ここまでの出世は異例であった。
なお、百済での本名は黒歯常之と呼ぶのだが、この長安に来てからは唐人のように、姓を「黒」、名を「常」として、「黒常」と名乗っている。
博麻は奥へと進み、上座から少し離れた位置でひざまずいた。
「面を上げろ、博麻」
上座の黒常が口を開いた。
博麻は顔を上げて、黒常の顔を見た。
黒常は柔らかい笑みを浮かべているが、その目には侮蔑がひそんでいた。
「お前にしては、遅かったな」
「はい」
博麻は返事した。ただし短く、最低限のことだけを答える。
黒常は博麻の汚れ具合と、わき腹のうっ血を見て、何かを察した。
「誰かに邪魔でもされたか」
「はい」
「ふふ、そうか」
黒常は楽しそうに笑った。
「労役は辛いか」
「いいえ」
「楽しいか」
「いいえ」
博麻の答えを受けて、黒常はつまらなそうにため息をついた。
「ふん、辛くもなければ、楽しくもないと」
黒常はそれから何も言わなくなり、天井をぼうっと見上げた。
そこで、おもむろに口を開いた。
「ならば、明日からさらに重い労役を行ってもらおう。できるな?」
「はい」
博麻は迷うことなく返事をした。
「その代わり、約束は必ず果たしてください」
約束、と博麻が言った。
黒常はそれを聞いて、わずかに眉を寄せる。
「うむ……俺が将軍になった暁には、お前たちの身柄を故郷に返す。その約束は今でも消えていない」
「ありがとうございます」
「せいぜい頑張ることだ。ちんたらしていたら、お前たちはこの異国で余生を過ごすことになるぞ」
黒常は冷たい声で言い放った。
「もう良い、下がれ」
黒常に退室を言い渡され、博麻は一度頭を下げてから、部屋から出ていった。
博麻が歩き、ひざまずいた場所は、汚れていた。
泥や砂、汗もあるが、食べかすのようなものも散らばっていた。食べかすは博麻のものではなく、街ゆく唐人や、はるばる商売に来た西洋人に投げつけられたものだ。
今日も街中の人間から憎悪され、何度も妨害を受けて、そしてやっと労役を終えた証拠だ。
黒常はその汚れた痕跡を見て、満面の笑みを浮かべた。
博麻の無様な姿に心から満足している、悪辣な笑顔だった。