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第9話『老猿の正体』
「ずいぶん上等な口を利くな。新羅の娘が、たいした変わり身だ」
その瞬間、妓女の顔つきが豹変する。
楽しむような表情から一変、焦りと殺気を孕んだ目つきを見せた。
彼女は足を振り上げる。上になった博麻の股ぐらを蹴り上げようとした。
博麻は後ろに跳び退き、女の蹴り上げをかわし、首を鳴らす。
「ふん、とんだメス猿だったか」
博麻はニヤリと笑った。
野犬、と言われた意趣返しとともに、その女の正体を言い当てた。
メス猿。つまり彼女が、先ほどまで博麻が追っていた猿の正体だったのだ。
女はそのまま剣吞とした表情で、耳飾りを取って、博麻に投げつけた。
とがった耳飾りが、博麻の目に迫る。
首をひねってかわすが、女はその隙に博麻に接近していた。
彼女の手には、もう片方の耳飾りがあった。鋭く、人を殺せるほどの刃物だ。
博麻はそれを手で受け止め、彼女の手を握りつぶしながら、強くひねり上げた。
「あうっ!」
彼女の顔に苦痛が浮かぶ。
「もう抵抗するな。さもなくば、壊す」
壊す、という物騒な言葉にも、彼女は怯まなかった。
たとえ手首の骨を引き千切られようと、彼女は諦めるつもりはないらしい。
その証拠に、彼女は服のすそから、小さな刃物を取り出した。
今度こそ、本物の凶器である。
「はっ!」
女が吼え、博麻の胸を狙う。
しかし博麻は手刀ではたき落とし、逆に女の首をわしづかんだ。
抵抗はもちろん、今度は悲鳴を上げることすらできない。
「やめろ。本当に殺すぞ」
低い声で、博麻は言い放つ。
そこには、ついに殺気が含まれていた。
刃物を持った彼女よりもはるかにどす黒く、冷たく、焼けるような殺意。
朱の刺青をまとった男が、美しい女の喉を締めあげている。
そこでようやく、女の顔から緊迫感が解け、苦しげながらも笑顔を見せた。
もう抵抗する気はない、という顔だ。
博麻は手を離した。ごつごつとした男の指が、白く細い女の首から離れる。
その白い首に、指の痕が赤々と残っている。
妓女はその場で膝をつき、ケホケホと咳きこんだ。
「大丈夫か」
博麻はしゃがみ、女の顔を覗く。
「……ええ」
女はうなずいたが、まだ少しだけ苦しいらしく、喉をさすっていた。
「まだ痛むか」
「それはそうでしょ」
女は唇をとがらせ、むすっとした顔をした。
妖艶な美女の顔から一転して、年相応の娘のような顔を見せた。
博麻がぶつけた殺意が、妓女を演じていた娘の仮面を、無理やりに引き剝がしたのだ。
「なぜ私が高句麗人ではなく、新羅人だと気づいたの?」
さっそく娘が問いかける。
「なまりがあったからだ」
「なまり? 私に?」
自分でも信じられない、という様子だ。
「新羅と百済の言葉は、戦場でもよく聞いた。知り合いにもいたし、新羅語を使う人間の特徴はなんとなくわかる。たとえ話している言葉が、唐の言葉でもな」
博麻はそう指摘したが、おそらくほとんどの人間は気づかないだろう。
博麻は客としてこの妓楼に来たわけではなく、最初からあらゆることに疑いの目を向け、真実を探るという意識を持っていた。
だからこそ、この娘の話す唐言葉の、わずかな不自然さに気づけた。
逆に言えば、初めからこの妓楼で遊ぶために、欲望を吐き出すために胸を躍らせた男ならば、そんな些細なことに気づくのは不可能に近い。
「お前は、猿の一員なのか」
今度は博麻が問う番だ。
娘は少しためらってから、うなずいた。
「やはり、そうだったか」
博麻は、娘の瞳をのぞきこむ。
娘の瞳は黒みが強く、茶色がほとんどない。
博麻から逃げた猿の人影とは違う。
その人影の瞳は氷のような、灰色の艶めきを放っていたはずだ。
「裏路地で俺と目が合った時、お前は何か被り物をしていたな?」
「それもわかるの?」
娘は目を白黒させた。
「まあな。確証はないが、あれは作り物の瞳のような気がした」
博麻が答えると、娘は寝台の下に手を入れて、一枚の仮面を取り出した。
その仮面は白い女の仮面で、瞳の部分は、灰色がかったガラス板が埋め込まれている。
「正解よ。これが、ついさっきまで私が付けていた仮面」
「ほう」
博麻は娘から仮面を受け取ると、試しに自分でも被ってみた。
すると面白いことに、ガラスを通して周囲を見てみると、薄暗がりの中でも細かい物体が判別できる。
仕組みに関する深い知識はないが、このガラス板は闇の中でもわずかな光を拾い、正確に物を見分けることを助けるらしい。
これだけでも、かなり高価で貴重な一品だ。
そしてこれを被った上で、布で鼻と口を覆い隠せば、猿の素顔を知ることはまったくできないだろう。
「見破ったのはあなたが初めて。いやいや、まったく困った男ね」
娘は笑ったが、そこにはどこか観念したような感情があった。
一方、博麻は笑わず、娘の瞳を見据えた。
「さて、おしゃべりはここまでだ。俺の要求は一つ、お前たちの頭領、老猿に会わせろ」
老猿に会わせろ。
その要求に、彼女の表情も真剣なものになる。
「老猿に会って、どうするつもり?」
「ひっ捕らえて、黒常という男に引き渡す。この長安の治安部隊の長官だ」
娘は顔をしかめた。
「嫌よ、といったら?」
「あまりやりたくないが、お前を始末する」
「……別のことなら、いくらでもやってあげても良いのだけれど?」
娘は流し目を送りながら、自分の着物の布に手をかけ、それをゆっくりと引き下ろし、博麻に対して素肌をさらした。
「残念だが、そうも言ってられない。老猿を引き渡さなければ、俺も、俺の仲間たちも、故郷に帰れないのだ」
娘の誘惑を前にしても、博麻は眉ひとつ動かさなかった。
ことは一刻も争う状況だ。
猿の頭領である老猿を捕らえて、黒常に引き渡さなければ、博麻とその仲間たちも倭国に帰ることができない。
それどころか、もしも他の唐人の政治家や武将に先を越されたら、いよいよ自分たちの命も危うくなってくる。
「お前の命や立場よりも、俺は自分と仲間の命が大事だ」
博麻はそう言い放ち、娘の肩に手をかける。
「余計な世話かもしれんが、もう盗賊稼業から足を洗え。頭を引き渡すのは心苦しいだろうが、どこかへ逃げて、のんびりと暮らす方が幸せだぞ」
まるで自分の娘を諭す父親のような口ぶりであった。
娘はそんな博麻をじっと見上げてから、いきなり噴き出して笑い始めた。
「あの戦場の時と同じ。おせっかいは変わらないわね、博麻」
「なんだと?」
この娘は自分のことを知っている。しかも、かなり前から。
もう一度、博麻は娘の顔をじっと見た。
自分よりもはるかに若い娘だ。
大人びた雰囲気を醸し出す化粧は似合っているが、その本当の年齢が若いことは、最初からなんとなくわかっている。
博麻が捕虜として長安で過ごして六年。
そしてさらに前までさかのぼると、三年間は朝鮮半島の戦場を駆け回っていた。
少なくとも六年以上前の出来事となると、この娘も、まだあどけない少女だったはずだ。
「……そうか、見覚えがあるぞ。たしか、燃えている家から救い出した」
博麻の答えに、娘は微笑んだ。
「そう、私はあなたのおかげで今も生きている。新羅軍の陣は打ち砕かれ、倭軍は逃げ惑う新羅兵を追いかけ、血に塗れた刺青の戦士が、新羅兵を次々と屍に変えていった……けれども、その戦士が、母親とともに焼け死ぬはずだった少女を救い出した」
娘の目は鋭く、博麻を見据えている。
ただ単純な感謝や慈しみの感情ではない。
悲しみも、感謝も、恨みもある、複雑な感情をぶつける目だ。
彼女が博麻に抱いている想いは、一言では言い表せない。
「薄情な人ね。私はあなたにすぐ気づいたわ。今日の昼間に、子どもから荷物を盗んだ男をこらしめたでしょう。あなたの顔、体の刺青、遠くからでも見て分かった」
どうやらあの時すでに、娘の方が博麻の存在に気づいていたらしい。
それから娘は周囲を見渡して、
「もう出てきていいわよ、あなたたち」
と、告げた。
すると部屋の至るところから、年若い少女たちがぞろぞろと出てきた。
一人や二人ではなく、五人、六人、七人と出てくる。
どの少女も若く、博麻の目の前にいる娘よりも年下の妓女ばかりだ。
おびえた様子で博麻を見る者や、明らかな敵意を持って睨みつける者もいる。
「おいおい、まさか」
この光景を見て、博麻はようやく察した。
「そのまさかよ。これが猿の構成員、そしてこの私が、あなたの追っている老猿よ」
娘、いや老猿は、博麻に対して微笑んだ。
彼女の命は博麻が握っている状況だが、驚いた博麻を見て、少しだけ得意げだった。
「猿の正体が、まさか妓女の集まりだったとは」
予想外だった博麻は、ため息を吐いて首を振った。
「つまり、俺を試したわけか」
「そうね。わざわざ裏路地で姿を見せたのも、この部屋に来たのも、あなたを一人だけ誘いこむため」
「なんのために?」
「顔見知りのあなたと、大事な話をするためよ」
老猿はそう言いながら、手振りで部下の妓女に指示した。
ほどなくして、部下は緑茶が入った碗を二つ持ってきた。
彼女はそれを受け取ると、一つを博麻に差し出した。
博麻は茶碗を受け取ったが、毒が入っている可能性も考え、まだ口はつけない。
それを見て、老猿はふふっと笑い、寝台に腰かけた。
「さあ、あなたも座って。ここでなら、たとえ誰かに見られても、お楽しみの最中だと思われるから」
「今も見られているが」
博麻は周りに控えた少女たちを見た。
「あら、見られるのは恥ずかしい? 私は見られたまま始めるのも燃えるのだけど」
老猿は舌なめずりをして、立ち尽くす博麻を見上げる。
「良いだろう。その話とやらを、聞いてやる」
博麻は老猿の隣に座った。