『第55話』同時攻撃作戦:博麻と劉仁軌

「これが戦だ。倭の戦士よ」

 声の方向に振り向くと、唐兵たちの間から、馬に乗った男が出てきた。

 男は高齢だ。
 軽装の鎧に身を包み、一本の細い槍を持っている。
 兜すらかぶっておらず、剃り上げた頭や傷だらけの顔が丸見えだ。

 格好だけなら、そのあたりにいる兵士と大して変わらない。

 しかし博麻は男がどのような人間なのか、直感で理解した。
 黒歯常之の二方面作戦を読み、その上で筑紫隊に奇襲を仕掛けたのは、この男だ。

「お前が、この部隊の将か」

 博麻の問いに、男はふっと笑った。

「いかにも」

「そうか……名乗れ!」

 博麻は斬馬刀を振り、切っ先を唐の将に向けた。

 これだけでも常軌を逸した挑発である。
 将の側近がにわかに殺気立つが、将は側近を手で制した。

「劉仁軌だ」

 仁軌と名乗った瞬間、博麻の目の色が変わる。

「お前を討ち取れば、この戦は終わるということか」

「そうだな」

 なんと劉仁軌はうなずいた。
 あっけにとられた博麻は、斬馬刀を構えるのが少し遅れた。

「斉射準備」

 その直後に劉仁軌が命じた。
 彼の周りにいた騎兵たちの間から、石弓を構えた唐兵がずらりと出てきた。

 熱く、発汗していた博麻の体が、一瞬で冷えた。

「射よ」

 命じられるがままに、唐兵たちが石弓から矢を放つ。

 博麻は体をかがめつつ、かたわらに倒れていた唐兵の死体を盾にした。
 すぐ頭上を大量の矢が通り過ぎる。

 盾にした死体はいくつもの矢を受け、あっという間にちぎれ飛ぶ。
 ほとんど同時に倭兵たちから悲鳴が上がる。

 今の一斉射撃は博麻だけではなく、ずっと後ろにいた倭兵たちも狙っていたのだ。
 射撃に巻きこまれて死ぬ唐兵もいたが、劉仁軌は眉すら動かさない。

「再び、斉射準備」

 劉仁軌の低い声が、大勢の唐兵をなめらかに動かす。

 博麻はただちに立ち上がり、走りだす。
 後ろを気にしている余裕はない。
 このまま石弓の斉射を受け続ければ、筑紫隊は近いうちに全滅する。

「劉仁軌ぃいっ!」

 まずは石弓を構えている唐兵を斬り捨てて、劉仁軌のもとにたどり着こうとした。

「射よ」

 だが、その前に劉仁軌の命が下り、唐兵たちが矢を放つ。

 今度は体を丸めつつ斬馬刀で急所を守ったが、博麻の右太もも、左肩の肉を矢が削った。

 博麻が苦しい表情を浮かべる。
 ばね仕掛けで矢を放つ石弓は、見た目以上に高い威力を秘めている。

「突撃準備」

 劉仁軌の命を受け、石弓を持った唐兵が下がり、強固な鎧を着た歩兵と騎兵が現れる。
 たった一声で、まるで水が流れるように唐兵を動かしている。

はらえ」

 その直後、唐兵たちが怒濤となって押し寄せる。
 これまでの戦いぶりとは打って変わって、整然かつ激しい勢いで、唐兵が攻めてくる。

 その激しい奔流の中に、倭兵が次々と飲まれていく。

「がぁああああっ!」

 当然、博麻も囲まれる。

 斬馬刀で暴れるが、押し寄せるのは唐の精鋭のみ。
 先ほどの槍使いと弓騎兵よりも冷静に、残酷に隙を狙ってくる。

 博麻が一人斬れば、まったく別の方向から槍が突き出される。
 それをよしんば避けても、また別の槍が襲いかかってくる。

 息もつかせぬ地獄で、博麻はもがき続ける。

 動きを止めれば一瞬で死ぬ。
 わかりきっているからこそ、果敢に叫び、腕を振るい、足を止めず、巨大な武器をとにかく敵にぶつけまくる。

 唐兵の死体が増えていく。
 だが博麻の体にも、生々しい切り傷が刻まれていった。

 やがて斬馬刀を振るう腕が痙攣して、目に見えて動きが鈍くなる。
 ついには斬馬刀の一撃をかいくぐる者すら出てきた。

「ちぃっ! まだだ!」

 斬馬刀を地面に突き立て、今度は双斧を腰から抜いた。

 圧倒的に腕が軽くなる。
 重さが解消されて、腕の痙攣が和らぐ。

「しゃああ!」

 博麻は槍をかいくぐり、手近な唐兵の首を切り裂いた。
 勢いそのままにその唐兵を突き飛ばし、後ろにいた唐兵の顔面に斧を叩きつける。

 身軽にはなれたが、武器に長さがなくなった分、完全に槍に囲まれたら今度こそ助からない。

 土を投げて目くらまし、地を這うように走って槍をかわす。
 唐兵の懐にもぐれば斧で首や腹を引き裂き、時には獣のように跳びかかって組みつき、耳や鼻を食いちぎる。

 手段を選ばず暴れる博麻に、劉仁軌は目を細めた。

「何か面白いことでも?」

 劉仁軌の側近が尋ねた。
 仁軌は無言で首を振ったが、微笑みはわずかに残したままだ。

「さて……この戦の動きは決まった。あとは倭軍と黒歯常之を全滅させて、それから西側の援護に向かえ」

「ははっ」

 側近たちに方針を引き継ぎ、劉仁軌は部隊の奥へと去っていく。

「逃がすかぁーーっ!」

 仁軌が馬首を後ろに返した直後、博麻の叫びが聞こえた。
 振り返りながらのけ反ると、回転しながら飛んできた手斧が、劉仁軌の愛馬の首をかすめた。

 馬が悲鳴を上げ、血をこぼしながら前脚を上げて暴れる。
 すぐさま劉仁軌は馬を落ち着かせ、博麻の目を見る。

 二人の目が合った瞬間、周りが動きを止めて沈黙した。

「じ、仁軌さま!」

 側近が駆けつけようとするが、仁軌は手を上げてそれを止めた。

「あの倭兵は生かして捕らえよ」

「……はっ?」

「気が変わった。二度は言わん」

 そう命じる劉仁軌の目に、残忍な光が宿った。

 側近は声を震わせて「御意!」と答え、前線に向かっていく。
 劉仁軌は悠々と後ろへ下がり、騎兵たちが急いで壁になる。

 博麻は歯噛みした。

 上手く当たれば傷を負わせることができた。
 それでなくても劉仁軌が怒りを抱き、自分を殺すために前に出てきてほしかった。
 そうなれば刺し違えてでも劉仁軌を討ち取り、この窮地をひっくり返せたはずだ。

 しかし劉仁軌は誘いに乗ってこなかった。
 馬を傷つけられても冷静さを欠かず、博麻への対処を部下に任せた。

 博麻は息を吐き、地面から斬馬刀を引き抜いた。

 敵将に隙は無く、いくら斬っても敵兵が尽きることはない。
 十中八九、自分はここで死ぬだろう。

 それでも生き残ろうとする意志を燃やしたまま、斬馬刀を高々と構えて、群がる唐兵たちを睨みつけた。

「望むところだ。殺せるものなら……殺してみろ!」

 たった一人で気を吐くその姿に、唐の精鋭たちですら気圧された。

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