『第61話』同時攻撃作戦:新たなる救援、そして撤退
「味方だ! 俺たちの味方だ!」
「みんな早く立て! 第二陣だ! 第二陣が来たぞっ!」
百済兵は新たな敵襲かと思ってがく然としたが、すぐに倭兵が味方だと気づき、それを口々に叫んだ。
味方が駆けつけたと全軍に伝わったことで、絶望していた兵たちの顔が明るくなる。
あの船にさえ乗れば、自分たちは助かるかもしれないと、それまで泳ぐのを恐れていた兵士ですら、ためらいなく河へ飛び込んで泳ぎ始めた。
「はっ……ようやく追いついた。さかのぼるのは面倒だったが、ここまで来た甲斐があったというもんだ」
先頭の船に乗っている若い倭の将がつぶやく。
軽装の鎧を着ており、腰には剣を差している。
細身だが筋肉質で、精悍な色黒の顔に、激しく雨粒が当たっている。
「帆をたたんで弓を構えろ! 岸に近づいたら奥にいる唐軍に矢を浴びせてやれ!」
倭の将が声を張り上げる。
倭兵たちも大声で返事をして、淀みない動きで射撃体勢を取っていく。
そして河の流れに逆らいながら、倭の船団は岸に寄っていく。
「射てぇーーっ!」
倭の将が叫ぶ。
矢が山なりに放たれ、坂を下っていた唐軍に向かって降り注ぐ。
目の前の兵に気をとられていた唐兵は、矢をまともに受けて倒れていく。
援軍に気づいた唐兵は矢から身を守ったが、坂を下る途中で足止めされることに変わりはない。
「どんどん射て! 唐軍を射殺せ!」
立て続けに倭の将が叫び、船上の倭兵が次々と矢を放つ。
坂を下る勢いに身を任せていた唐軍にとって、この一斉射撃は効いた。
矢の届かない場所まで戻ろうとしても後ろの味方が邪魔で、すぐに坂を上ることができない。
最初の矢を防いでも、続く矢を受けて倒れる者が増えていく。
「ラジン! 走るぞ!」
「うん!」
この機を逃すまいと、博麻とラジンが唐軍に背を向けて走り出す。
唐軍の中団に取り残されていた二人だが、最前線が矢を受けて混乱しているなら、そこを切り裂いて味方と合流できる。
逃げようとする二人を唐兵は追いかけようとしたが、二人の足に追いつく者はいない。
「味方の矢に当たるなよ!」
博麻の声に、ラジンもうなずく。
二人が坂を下れば、唐騎兵が矢を受けている地帯に差し掛かる。
もちろん二人の頭上にも倭軍の矢が降ってくるため、決して気は抜けない。
しかし、またとない好機でもある。
精鋭として名高い唐騎兵たちが、間断なく降り注ぐ矢に苦しみ、後ろから迫る博麻たちに気づいていないのだ。
「はぁああっ!」
気合とともに斬馬刀を振り、唐騎兵の背中を叩き斬る。
いきなり後ろから斬られ、唐騎兵はわけもわからないまま絶命して落馬した。
同じくラジンも馬や騎兵の脚を斬りつけながら、坂を下っていく。
矢から身を守ることに意識が向いているというのに、二人が手あたり次第に斬り暴れていくことで、唐騎兵たちはさらに混乱する。
混沌とした状況の中でも、博麻とラジンは騎兵たちの先頭を見ていた。
少しでも劉仁軌に痛手を与えるためには、ただ逃げながら暴れるだけでは足りない。
「うろたえるな! 向こうの矢が尽きたら、一気に突っこめ!」
騎兵を率いていた劉仁軌の側近が、隊の先頭で味方を鼓舞していた。
その騎兵を発見したラジンは、馬の間を縫って走り、高々と跳ぶ。
「なっ」
馬上の男が振り返った瞬間、頭上から降ってきたラジンと目が合った。
跳びかかりながら男の首元に剣を突き立て、そのまま男とともに地面になだれこむ。
馬から落とされた男は、首を刺されても抵抗しようとしたが、ラジンは馬乗りになって、鎖骨のあたりから胸に向かって強引に刃をねじこんだ。
「貴様!」
そこから少し離れたところで、もう一人の側近がその光景を目撃していた。
戦友を討ったラジンを許すまいと、槍を握りしめつつ馬に合図を入れる。
その馬の出足を、斬馬刀がすくい上げた。
「ぐあっ⁉」
馬が前につんのめりながら派手に転んだ。
地面に投げ出された男は立ち上がろうとするが、斬馬刀の刃がその首をはね飛ばした。
「……手付けだ! とっとけ!」
博麻は地面に転がった男の首をつかんで、近くの唐騎兵に投げつけた。
それに唐騎兵が怯んだのを見て、二人は坂を一気に下っていく。
「お、追え! あの二人を殺せ!」
ある唐騎兵は味方に追撃をうながしたが、矢が飛んでくるせいで前に進めない。
博麻とラジンは矢をかわしながら坂を下って、ためらうことなく河へ飛びこんだ。
「泳げる人間は向こう岸まで自力で行け! 怪我している人間は引き上げてやる!」
船上で倭の将が叫ぶ。
泳ぎに自信がある者は、唐軍が追ってこないうちに対岸へ逃げていく。
二人も泳いで渡りきろうとしたが、その前に近くの船から手が差し伸べられた。
「兄貴! こっちです!」
船の上から手を伸ばしたのは薩夜麻だった。
頭に怪我を負ったのか、兜を脱いで、頭に布を巻いている。
「すまん、助かった!」
薩夜麻の手をつかみ、船に上がってから、すぐにラジンも引き上げた。
「二人とも、無事で良かった……」
薩夜麻はそう言いながら、どっと疲れた様子で腰を下ろした。
「お前もな。怪我して運ばれたと聞いたが、大丈夫なのか」
「はい。落馬して頭を打ちましたが、黒歯常之どのの兵に救出されて助かりました」
「それなら良かった」
博麻はそこで、膝の力が抜けてへたりこんだ。
ラジンも同じように膝を屈し、息を吐く。
いくらこの二人といえど、生き残れたという安堵感で全身の力が抜けた。
南の岸に目を向けると、多くの唐兵が集まっている。
逃げ遅れて殺される者もいたが、博麻たちの奮闘と援軍の援護射撃により、半分以上の兵が逃げきれた。
黒歯常之たちも自分の馬を諦め、倭軍の船に乗りこんで助かっていた。
坂の上に目を向けると、唐軍の奥に劉仁軌が見えた。
かなり離れたため、表情は読み取れない。
撃退された倭軍と百済軍をあざ笑っているのか、まんまと逃げられたことを悔しがっているのかわからない。
これで終わると思うなよ。
博麻は胸の内でそうつぶやいてから、倭の船団を見渡した。
ここに現れた倭軍は多く、少なく見積もっても三千人はいる。
装備も博麻たちより立派で、有力な豪族兵に率いられているのだろう。
船団は全体的に対岸に寄りつつ、河をどんどん下っていく。
白江は場所によっては足がつくほど浅いが、雨のおかげで水かさが増しているため、船団は驚くほどなめらかに進んでいく。
すぐに唐軍は見えなくなり、燃える熊津城も小さくなっていった。
「そういえば、土師と遅受信どのはどうした? あの二人の隊も無事なのか?」
城の西側で戦っていたはずの仲間を思い出し、博麻は薩夜麻に尋ねた。
薩夜麻も首を振った。
山の中で唐軍と戦い続けたため、彼もまた戦場全体の状況を把握しきれていなかった。
「なあ、この船団を率いているのは、なんという方だ」
博麻は船を漕いでいる倭兵に尋ねた。
鎧が汚れていないところを見るに、第二陣の兵に違いない。
「上毛野の若さまです」
上毛野(かみつけの)という氏族に聞き覚えはなかった。
「城の西側で仲間を見なかったか? この河を上る途中で見かけるはずだ」
特に威圧するつもりはなかったが、必死に問いかける博麻の圧に倭兵がたじろぐ。
そこへ、別の船から声が聞こえてきた。
「向こうの味方も無事だ。俺の部下がお前たちと同じように逃がした」
声をかけたのはあの倭の将だった。
博麻たちの船の横に付け、会話を交わせる距離まで近づいてきた。
「あんたが、上毛野どのか」
「おう」
「ずいぶん若いな」
博麻が若いという言葉を使った途端に、上毛野はぎろりと睨んできた。
「てめえ、俺が小僧に見えると言いてえのか。ああ?」
その表情は脅しではなく、本気で怒りをあらわにしていた。
色黒の肌に赤みが差すほど頭に血が上り、目も血走っている。
「ま、待ってください、上毛野どの」
薩夜麻が止めに入る。
「悪気はないんです。ここはどうか、お許しを」
謝ってきた薩夜麻を見て、上毛野も毒気を抜かれたようで、ふうと大きく息を吐いてから怒りを納めた。熱しやすく冷めやすい男らしい。
「……まあ良い。とにかく、今回は俺たちが助けに来た。泗沘城も熊津城も、また作戦を練り直してからにしたほうが良いぜ」
「泗沘城も?」
「あっちも追い詰められていたからな。阿倍どのや百済の大将も、巨勢(こせ)どのと三輪どのが救出したよ」
博麻たちはそれを聞いて、大きな落胆を覚えた。
敵の戦力が分散したところを狙うために、泗沘と熊津を同時に攻めた。
どちらかが失敗しても、どちらかが城を落とせると信じていたからこそ戦い続けたのだ。
目に見えて落胆した博麻たちを見て、さすがの上毛野も同情の想いを抱いた。
「そう落ちこむな。百済の残党と五千人の第一陣で、よくここまでやったもんだ。こっからは俺たちも加わる」
そう言いながら上毛野は腰を下ろし、西の空を見上げた。
河を下っていくにつれて雲は薄くなり、夕空が見えてきた。
赤い日の光が水面に反射して、輝きながら水の流れとともに揺らめいている。
あれほど激しかった戦いと雨模様が、まるで嘘だったかのようにのどかな風景だ。
城を奪い返そうとした大一番に、博麻たちは敗北した。
しかし彼らに敗北感はなかった。
多くの味方を失った悔しさもあるが、彼らに後ろを向く暇はない。
今日を生き延びたことに喜び、明日の戦いに備える。
博麻も薩夜麻も、黒歯常之も同じ想いを抱き、同じ方向を見ていた。
だが、ラジンだけは別の想いを抱いていた。
今日の戦で、ついに己の目指すべき場所が定まった。
朝鮮半島の南端、激しい動乱に巻きこまれ続けた伽耶の地に、母ユナはきっといる。