『第25話』半島戦争、開幕:唐の蘇定方と劉仁願

 六六一年、十月。

 朝鮮半島の西部、百済の旧王都『泗沘城(しひじょう)』にて、唐の大将、蘇定方(そていほう)は部下と酒を酌み交わしていた。

 昨日は泗沘城周辺まで百済の残党が迫ったが、唐軍は防衛に成功し、十数日ぶりに酒が振る舞われた。
 もっとも見張りの兵などは、その酒宴には一切参加せず、さらなる敵襲がないかと目を光らせている。

「今日はご苦労だったな、仁願どの」

 蘇定方は、卓の向こう側に座っている仁願という青年に、酒壺を向けた。

「こちらこそ、救援ありがとうございます」

 青年は自分の盃を前に出して、蘇定方から酌を受ける。

 この仁願という青年の名は、劉仁願(りゅうじんがん)という。
 劉仁願も唐の将である。泗沘城を守る大役を任されているが、百済の残党軍が執拗に攻めてきたため、蘇定方の加勢を受け、ようやく残党軍を撃退した。

「良い良い。熊津城(ゆうしんじょう)にこもっているのも退屈だったのだ。久しぶりに暴れることができて、わしも嬉しかったぞ」

 蘇定方は酒壺を置き、赤らんだ笑顔を向けた。

 蘇定方は対百済戦の総大将だが、国としての百済は滅んでしまったため、彼自身が戦う機会はうんと減った。
 現在は泗沘城の北東にある、熊津城という城に駐留している。

 熊津城は山地に囲まれた堅牢な城だ。
 また立地としても上等で、泗沘城と連絡をとりやすい距離でありながら、北の高句麗、東の新羅をおさえる位置にある。

 百済が終われば、次の標的は高句麗と新羅だ。

 唐の皇帝も、百済だけを滅ぼして終わる気はさらさらない。蘇定方は皇帝から直々の命を受け、次の国を滅ぼす準備を進めている。

 しかし、何事にも障害というものはある。
 劉仁願と蘇定方は有能な将だが、二人とも今日まで百済の残党を追い払う戦に追われていた。

「それにしても、鬼室福信はどうしようもない男だな。義慈王は亡くなり、王都も取り返せないのなら、さっさと諦めれば良いものを」

 蘇定方はやれやれと首を振ってから、自分の盃をあおった。
 空になった盃を見て、劉仁願がさっと酒壺を持った。

「どうぞ」

「おう、すまんな」

 今度は蘇定方が酌を受ける。
 なみなみと注がれた盃に口をつけてから、蘇定方はいったん盃を卓に置いた。

「仁願どの、今日はあの残党どもを散々に打ち破ったのだ。もう、わしの加勢がなくとも、そなたなら容易に滅ぼせるだろう」

 かかっと蘇定方は笑ったが、対する劉仁願の顔色は浮かなかった。

「なにか、懸念でもあるのか」

 蘇定方が尋ねると、劉仁願はうなずいた。

「鬼室福信が脅威か」

「いえ、あやつだけならば、私の軍でなんとかなります」

 鬼室福信というのは、百済残党軍の大将だ。
 百済王族に近い豪族の血を引き、神武の人と兵たちに称えられている猛将だ。

「今日の鬼室福信の攻勢は、総力を挙げたものでした。ですが、私と蘇定方どのに撃退され、やつはかなりの兵を失いました。もうこの泗沘城を落とす余力はないでしょう」

 今日の勝利を語っているというのに、劉仁願の表情が少しずつ固くなっていく。

「しかし、倭国の援軍が今年中に来るとのことです。百済の捕虜が言っていたことなので、おそらく間違いありません」

「倭国か」

 蘇定方は眉をひそめて、酒を一口飲んだ。

「やっかいだな」

「倭国が、ですか」

「うむ」

 素直にうなずいた蘇定方を見て、劉仁願は戸惑った。

 蘇定方は唐でも五指に入る将だ。
 今回の戦ではもちろん、騎馬民族との戦でも大いに活躍した経歴を持ち、劉仁願にとっては憧れであり目標だ。

 その蘇定方が、東の果てにある小国に、一定の警戒心を抱いている。
 若い劉仁願にとってそれは驚きであり、また、わずかな失望もあった。

「不服そうだな」

 劉仁願の感情を察してか、蘇定方がにやりと笑って問いかけた。

 劉仁願は慌てて首を振ってから、卓上にあった布で、額の汗をそっとぬぐった。

「不服など、そんな……」

「もちろん正面から戦えば負けない。兵の数も、質も、我が唐帝国におよぶ国は、この世のどこにもいない。我々が総力を挙げれば、かつての波斯(はし。ペルシャ帝国)や羅馬(らま。ローマ帝国。この時代ではビザンツ帝国)であろうと打ち砕けるさ」

「では、倭国がやっかいというのは?」

 この問いを受け、蘇定方は天井を仰ぎ、少し考えてから逆に問いを投げかけてきた。

「例えば、海の向こうにあった同盟国が、別の国に滅ぼされたらどうする? その国の使者が、国の復興を助けてほしいと懇願してきたら、援軍を派遣するか?」

「時と場合によりますが……少なくとも、要請通りに軍を派遣することは、まずありえないと思います。ましてや海を隔てているのなら労力がかかりますし、それなら隙を見て、滅んだ国の領土を何割か奪うほうが得です」

 劉仁願の述べた意見は冷酷だが、この時代ならば当たり前の考え方である。

 特に、唐帝国のような軍事大国であれば、同盟国や属国をわざわざ復興させるという考えが最初からない。
 隣の属国が滅んだのなら、その領土の一部をうまく唐に塗り替え、滅ぼした国との戦いに備えたほうが無駄がない。

「わしも同じ考えだ。しかし、倭国の人間は少し違う」

 さらに蘇定方は続ける。

「やつらはあまり人を疑わず、嘘や腹芸が苦手だ。また、自分が損をしても、他人に手を貸す気質がある。百済に泣きつかれただけで海を越えてくるのだから、まさにこの通りだ」

「あわよくば百済の領土を奪おうとしているのでは? 援軍に来たと見せかけて、うまく領土を手に入れれば、苦労をかけて海を越える理由になります」

「わしとしては、そのほうがありがたい。まだ交渉の余地があるからな」

 唐が周辺の国家を侵略する理由は、単に領土を広げるだけではない。

 それぞれの国には文化があり、法律があり、曲がりなりにも歴史があるため、それらを滅ぼすのは時間と金がかかる。
 ならば戦で圧倒した後に、脅し、支配下に置くことができれば、貢物を得ることができる。

 その場合、貢物を受け取る方が得をする。後腐れなく滅ぼした国もあったが、労力をかけずに属国が増えるのなら、それも大いに国益となる。

 つまり唐としては、利潤を得られるのなら、朝鮮半島にどの人種がいても構わない。

 倭国が半島の領土が欲しいのなら、支配下にある百済の官吏を全員追い出して、倭国と領土と貢物について交渉することができる。
 例え交渉が決裂しても、こちらに損はない。

 倭国と百済が土地を奪い合ってくれれば、生き残った方を倒せば終わる。
 倭国がこの半島に領土的野心を持っているのなら、いくらでも利用の方法はあるのだ。

「だがな、もし倭国が本気で百済を復興させようとしているのなら、面倒なことになる」

「百済の残党軍と一致団結して、攻めてくるということですか」

「そうだ。我らから見れば、純粋な敵国が一つ増えたことになる。しかも策や交渉で切り崩しにくい頑固な人種が集まっているのだから、なんとも戦いづらい」

 懐柔しにくい敵の出現。その現実に、血気盛んな劉仁願も額に手を当てた。

 当然、それでも負けるはずがないと二人は考えている。死にかけの百済に倭国が加わっても、こちらの方がはるかに強力な軍団を有している。

 あくまで悩ましいのは、勝った上での損害だ。

 百済の残党を滅ぼすのは目前なのに、さらに倭国と戦うのは時間と労力がかかる。
 その分だけ、高句麗や新羅への侵略が遅れてしまう。

 時間をかけすぎてしまえば、別の問題が出てくる。
 もしも唐の皇帝や宰相が、今回の戦はうまくいっていないと判断すれば、たとえ百済と倭国を撃破しても、戦が終わった後に二人は左遷される可能性がある。

 本国には膨大な政治家、武将が入り混じっており、わずかな失敗をつつかれてしまえば、今の地位から蹴落とされてしまうのだ。

「とにかく、今は英気を養い、明日から倭国に備えることだ。いざ倭国が攻めてきても、決して動じず、正面から蹴散らしてやれば良い」

 そう締めくくってから、蘇定方は盃をあおった。

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