『第123話』迫りし決戦の時:団結する倭軍
「さて、そろそろ軍議に向かうか」
博麻は斜面を下り、薩夜麻もそれに続いた。
話しているうちに日は傾き、空はあかね色に染まりつつあった。
草が生い茂る斜面を下る間も、夏のぬるい潮風が博麻たちの頬をなで、空を見上げれば、雲のない夕焼けの晴天が広がっている。
入り江には多くの兵士がいる。
ほとんどがせわしなく動き、明日の出港に備えている。
彼らも美しい夏の景観をながめる余裕はない。
はたして河口に立ち塞がる唐水軍を倒せるのかという不安と、それでも早く周留城を救わなければならないという焦りが、明らかだった。
二人は砂浜の一角に建てられた大陣幕にたどり着き、衛兵に名を告げてから入った。
陣幕の中に入ると、倭軍の諸将が集まっていた。
大将格の阿倍、安曇、廬原から始まり、豊璋の補佐をしていた秦と狭井、そしてこれまでともに戦ってきた第一陣、第二陣の戦友たち、そして第三陣の見知らぬ将たちも揃って着席していた。
その中で、百済王である豊璋は円卓の最奥に座っていた。
そこは最も上席の人間が座る席だが、当の豊璋はとても居心地が悪そうに目線を左右に動かしていた。
入口近くの下座に座った博麻と薩夜麻は、落ち着かない豊璋を見て、まあ当然だろうなと思った。
名目上、百済王である豊璋がこの場で一番の権力者なのだが、もはや彼の評価は地に落ちている。
豊璋の名声の凋落は、避城に移ったところから始まった。
あの不用意な移動がなければ、正武を助け、徳安城を守り切ることができただろう。
しかし彼はその後も良い采配を振るえず、倭軍を厄介払いし、百済陣営もまとめきれず、ついには鬼室福信を処刑してしまった。
倭の諸将も口には出さなかったが、豊璋は王の器ではないと、すでに誰もが思っていた。
「揃ったな。では、軍議を始める」
口火を切ったのも豊璋ではなく、倭軍の最年長である安曇だった。
「皆も知っての通り、唐の劉仁軌が率いる水軍は、白村江に布陣しておる。あの河口を越えなければ周留城にたどり着くのは難しい」
安曇は部下に作らせた大きな木板を掲げた。
その木版にはおおまかな百済領の地図が描かれている。
白村江、そこから続く白江、周留城、泗沘城、熊津城も記されている。
「そして、この周留城には蔣尋王妃殿下が囚われておる」
安曇は淡々とした口調で述べたが、そこには隠しきれぬ怒りがあった。
他の倭の将も同様だ。
百済復興のために自分たちは命を賭けて海を渡り、唐と新羅の軍勢に立ち向かった。
滅ぼされた百済に対する哀れみがあったからだ。
だが、執得はその倭軍の想いを踏みにじった。
豊璋を操って倭軍を厄介払いし、派閥争いのために鬼室福信を処刑し、ついには自分が助かりたいという理由で、同盟国の姫すら人質にとった。
そしてその怒りは、少なからず豊璋にも向けられている。
これまで倭国で育ってきた王子という点もあり、執得に好き勝手にされていた豊璋に対して、倭軍の人間も多少の同情が残っていた。
しかし豊璋は鬼室福信という大黒柱を処刑し、敵が迫る周留城を出て、倭軍との合流を優先した。
豊璋にも言い分はあるだろう。
しかし、王である自分の立場の重さを理解せず、その行動の結果が、今の執得の増長ぶりを産んでしまったと言える。
倭の将たちの怒りも当然だった。
表立って豊璋を非難する者はいないが、ただ媚びへつらう百済の将とは違い、倭の将たちは明らかに彼を「お飾り」にして軍議を進めていく。
「秦どの、狭井どのの報告によれば、唐と新羅の陸軍は十日以上も前に、白江の守りを突破したとのことじゃ。このことから、すでに周留城は敵に包囲されていると考えるべきじゃろうな」
周留城が包囲されているという言葉に、倭の将たちの顔に緊張が走る。
「無論、すぐに周留城が落ちることはない。百済で最も守りの固い城ゆえ、悲観するのはまだまだ早いぞ」
「だが、時間をかける余裕はないんじゃないか」
意見を投げかけたのは、大将の中でも一番若い廬原だった。
「その周留城が素晴らしい城だってことは否定しないが、なんせ城を守っているのは、仲間割れの激しい百済軍だ。結束力は信用ならないし、唐と新羅に寝返る馬鹿が現れるかもしれないだろう」
廬原は豊璋の前でも、遠慮なく百済陣営の体質を批判した。
彼の批判を受け、さらに豊璋は身を縮ませた。
「城の守りは、人の団結力がモノを言う。いくら強固な要塞でも、俺は一刻の猶予もないと思うがな」
廬原の意見に、安曇はうなずいた。
「もちろんじゃ。下手に日にちをかける余裕はない。万が一にでも蔣尋王妃殿下が敵の手にかかるようなことがあれば、我らは中大兄皇子殿下に顔向けできぬ。必ずや、ご無事に助け出さねばならん」
多くの将がうなずいた。
「しかし、唐水軍は強敵です。無策に突っこむのは危険ではありませんか」
そう声を上げたのは、第二陣に属している河辺だった。
「我々は陸の戦いには自信があります。しかし海戦となれば、船や弓の強さが重要です。正面から戦うよりも、策をもって戦うべきでは」
「河辺どの、策とはどのようなものがあるのか」
三輪から鋭く問われ、河辺は少したじろいだ
「それは、今から考えるしかありません。私が言いたいのは、唐の水軍とまともに激突すれば、周留城を助ける前に損害が大きくなってしまいます」
「そのような悠長なことを言っている暇はない。明日にも出発するというのに、策を練る時間があると思うのか」
河辺の考えに難色を示す三輪だったが、そこで薩夜麻は手を挙げた。
「すでに策はあります!」
その言葉に一同の視線が集まった。
「最良の策かどうかわかりませんが、少なくとも考えなしに突撃するよりも、唐水軍に勝ちやすくなるでしょう」
「聞かせてくれ、薩夜麻どの」
安曇がうながすと、薩夜麻は話し始めた。
その内容は、先ほど博麻に話した内容と同じものだった。
薩夜麻が提示した策を聞き、多くの将は顔をゆがめた。
「つまり、その策とは……火矢に耐えながら、唐水軍を白江の湾曲した地点まで押しこめと?」
安曇が要約すると、薩夜麻はうなずいた。
安曇は難しい顔をして、腕を組んだ。
あまりに予想を超えた策に、大将である彼もこの是非に悩んだ。
そこで、廬原が真っ向から反対を述べた。
「話にならないな。敵の船に乗りこむのは当然だが、それなら急いで接近して乗りこんだほうが、被害が少なくて済むだろうが」
彼は甥の水軍が唐水軍の火矢によって、あっという間に火だるまになる光景を見た。
その経験もあり、唐水軍の攻撃を耐えしのぎながら追い込むという薩夜麻の作戦に、まったく現実感を持てなかった。
「やつらは遠距離から大量に矢を放つんだぞ。それを耐え続けろというのは酷な話だ。やつらを後退させる前に次から次へと死ぬ」
しかし薩夜麻もゆずらなかった。
「もちろん完全に耐えきることは大変です。戦死する者も大勢出てくるでしょう。ですが、唐水軍に包囲された場合、全滅する危険もあります」
全滅という言葉に、軍議の場がざわついた。
「我らが包囲されると?」
廬原が聞き返すと、薩夜麻はうなずいた。
「馬鹿なことを言うな。やつらの軍船は遅い。広い海であろうと、数の多い俺たちを包囲することは難しいぞ」
「いいえ、唐軍の船を遅いと判断するのは危険です。一度でも包囲が完成したら、海上は容易に逃げられません。そして猛攻撃を受けて海に落ちれば、鎧を着た兵士はまず助からないでしょう……つまり広い河口で唐水軍に包囲されたら最後、我らは何もできずに全滅します」
薩夜麻の言い分は理論的で、彼の意見にうなずく将もいた。
それでも薩夜麻の作戦も危険は大きい。
唐水軍を白江まで後退させるまで、防戦一方なのだ。
勇猛な倭兵たちでも、結局は人である。
次々と味方が死ねば気力は削がれ、下手すれば唐軍に接近するまでに逃げようとする者も現れるかもしれない。
「薩夜麻どの、そなたの策は充分に理解した」
そこで安曇が口を開いた。
「では、前衛はどう選ぶつもりだ。この策で最も重要なのは、最前線で唐軍の火矢、石弓を耐え続ける部隊だ。それを担う隊がいなければ、そもそもこの策は成り立たない」
そこで、博麻が口を開いた。
「前衛は俺たちの隊が行う。唐軍の攻撃を防ぎ、劉仁軌を後退させてやる」
臆せず宣言した博麻に視線が集まるが、半分以上の将は失笑した。
薩夜麻と博麻が率いる隊は三百人ほどしか残っていない。
どれほど意気込んでも、唐軍を押しこむ壁にはならない。
物理的にどうしようもないことを言った博麻に、周囲の将たちは思わず笑ってしまったのだ。
しかし、その失笑を止めたのは一人の声だった。
「俺も前衛に加わるぜ。俺の部下にも、火矢ごときにおびえるやつはいないからな」
手を挙げたのは上毛野だった。
「かかっ、わしも大賛成や! 土師隊も前衛に出させてもらうで。唐軍の火矢がおっかない隊は、わしらの後ろにいると安心できるで」
続いて土師が手を挙げたかと思うと、その直後に物部も手を挙げた。
「我ら物部隊も前衛を志願する。他の豪族の部隊はどうなのか知らないが、敵の矢を防ぎ続けるなど、我らにとっては造作もない」
間接的に土師と物部に侮られたことで、同じ名門豪族である間人、巨勢も手を挙げた。
「私の部隊も前衛に行かせてくれ。間人氏の戦士は敵の矢に臆さんぞ!」
「俺もだ。巨勢の生まれに命を惜しむ軟弱者はいない」
続々と前衛部隊を希望する将が出てきたことに、廬原はもちろん、安曇も目を丸くして言葉を失っている。
「我も前衛に出させてもらおうか。良いな、安曇どの」
そしてついには、安曇の隣にいる阿倍まで手を挙げてしまった。
「阿倍どの、第一陣の長であるそなたが出るのは、さすがに……」
「安曇どの、すでにこの軍は一つにまとまった。総大将は一人で充分であり、今の我もまた一介の将でしかない。誰がなんと言おうと、我が阿倍隊も暴れさせてもらうぞ」
そして阿倍は、廬原に対して不敵な笑みを浮かべた。
「さて、廬原どの。これでも、筑紫 薩夜麻が考えた策は不可能かな?」
廬原は困ったような微笑みを浮かべてから、首を振った。
立場上は同じ大将格とはいえ、阿倍は長年にわたって戦功を積み重ねてきた、倭国屈指の猛将である。
彼が前線に出るとなれば、それを否定できる将はいない。
「いや、不可能ではありません。むしろこれほど腕自慢の将が前衛を担うとなれば、唐軍を後退させることは充分可能でしょうな」
最初は反対する気だった廬原も、このそうそうたる顔ぶれには納得するしかなかった。
第一陣、第二陣が新羅軍に挙げた武功は、彼もすでに聞き及んでいる。
中でも第一陣の将たちは豪傑ぞろいである。
猛将と名高い阿倍や土師、名門物部氏の筆頭剣士である物部 熊はもちろん、筑紫隊に属する刺青の戦士、博麻の戦いぶりは兵たちの間でも語り草となっている。
その証拠に、合流してまだ間もない第三陣の将たちも、ここまで生き残った第一陣の将兵を畏敬の眼差しで見つめているのだ。
「私の策に賛同していただけたこと、感謝を申し上げます」
薩夜麻は礼を述べてから、言葉を続けた。
「明日は厳しい戦いになるでしょう。相手は大陸最大の唐帝国です。その唐の水軍が万全な状態で我らを待ち構えています」
将たちの顔つきに緊張感が戻ってくる。
「しかし我らは勝てます。臆せず前に進み、じっくりと後ろへ追い詰めれば、後はやつらの船に乗りこんで首を獲るだけです。明日の勝負は、そこだけです」
一同の瞳に熱が宿る。
揺らぐことのない戦意だけが燃えたぎっている。
薩夜麻が話し終えると、安曇がゆっくりと立ち上がった。
「皆の者、これにて方針は決まった。今夜は英気を養い、明日の決戦に備えるのだ」
大陣幕にいる倭の諸将が、応ッ! と野太い声を上げた。