第61話『大宰府』
数刻後、薩夜麻たちは大宰府に到着した。
大宰府は筑紫港から南東に二十キロの位置にある行政機関だ。
複数の建物が並ぶ大きな行政区であり、筑紫国における国防、外交、内務を取り仕切っている。
白村江の戦で倭軍が敗北した後、中大兄皇子(現在の天智天皇)が唐軍の来襲を危ぶみ、この大宰府を増設した。
ゆえにどの建物も、比較的新しい。
そして中大兄皇子は、この大宰府の初代長官に阿倍比羅夫を任命した。
阿倍は倭軍きっての猛将であり、戦の経験も申し分ない。
もしも唐軍が攻めてきたとしても、阿倍ならば筑紫の軍だけで、倭軍本隊が来るまで持ちこたえることができる。
阿倍もこの役職の重要性を理解し、北陸にある自分の領地は甥に任せ、自分は死ぬまでこの大宰府で国防を担うと決心していた。
だが現在は、その阿倍もかなりの老齢の域に差しかかっている。
最近は体力も衰え、病にかかることもある。公務に代理の者を立たせることも増えた。
阿倍ほどの大人物であっても、いずれは年老いて衰える。
だからこそ、この筑紫国の防衛能力を維持するために、阿倍以外の人間の防衛意識が今後はさらに重要になってくる。
薩夜麻たちは大宰府の城館に通された。
城館の大広間で待っていると、阿倍比羅夫が現れ、上座に座った。
十年前よりも痩せていたが、その眼力と威圧感は変わらない。
「おお……! よくぞ無事に戻ってきた、筑紫どの、土師どの」
阿倍の一言に、薩夜麻と富杼は再び平伏した。
「筑紫薩夜麻、ただいま帰還いたしました」
「同じく土師富杼、ようやっと帰還しましたわ」
二人の姿を見て、阿倍は顔をほころばせた。
「そなた方の戦働き、まるで昨日のことのように思い浮かぶ。あの戦で散った戦友は多く、こうして言葉を交わせる者はわずかだ。我がここの長官に就いてから、これほどめでたい日はなかった」
そう語る阿倍の瞳には、わずかな寂しさがあった。
鬼のように戦場で暴れていた阿倍とは思えぬ表情だ。
だが彼も、人だ。
散っていった戦友たちを偲び、彼らの死に報いるために北陸の故郷に帰らず、国防の重職を務め続けた。
彼ほど雄々しい大将軍であっても、長らく重責と孤独を感じていたのだろう。
「阿倍どの、早馬で先に送った使者から、話はお聞きしていますか?」
薩夜麻が尋ねると、阿倍はうなずいた。
「うむ、だいたいのことは聞き及んでいる……唐軍の企みを知り、その情報をここまで届けるために、逃げ続けたとな」
「その通りです」
「……そして、あの博麻が犠牲になったと」
「生死はまだわかりません。ですが、兄貴が身を挺したことで、私たちはこうして倭国の土を踏むことができました」
そして薩夜麻は懐から巻物を取り出し、阿倍に近づいて差し出した。
阿倍は巻物を受け取り、内容を確認した。
「たしかに、これは我が国を侵略するための計画書だ。誰がどう見ても明らかな、間違いない機密文書だ」
そして阿倍は、側近の男に視線を送った。
側近はうなずき、すぐに部下を連れて城館から出ていった。
今度は彼らがこの情報を、倭国の都まで伝える。
これで、薩夜麻たちの役目は完全に終わった。
倭国をおびやかそうとする唐帝国の企みが、ついに倭国本土に知れ渡る。
故郷を踏みつぶされてなるものか、という博麻の鉄の意志を、薩夜麻たちが全うしたのだ。
「天晴れだ。それしか、何も言うことはない」
阿倍は目を閉じ、天井を仰いだ。
「異国の都で死線をくぐり抜け、故国を救おうと奮闘したそなたたちは、まさに英雄だ。天晴れとしか言いようがない」
阿倍は手放しに薩夜麻たちを賞賛した。
「いいえ、私たちはまだまだ未熟です。真の英雄は、博麻の兄貴です」
「うむ……たしかに、そなたの言う通りだ。博麻は、誰にもできないことをやってのけた。これほど己を犠牲にして、仲間を、家族を、国を守れる男はどれほどいるだろう」
彼は博麻にも一目置いていた。
博麻は豪族ではなく、筑紫隊の副官に過ぎなかったが、彼の武勇は異彩を放っていた。
刺青を刻んだ二頭の狂犬、博麻とラジン(ウンノ)。
この二人が最前線で奮闘したことで、多くの倭兵が救われていた。
そんな彼が黒歯常之の屋敷で暴れ、薩夜麻たちを逃がした。
兵であっても、捕虜であっても、彼は変わらず、信念を貫いた。
「博麻という男は、大したものだな。同じ男であっても惚れ惚れするほど、やつの生き様は、まばゆい」
阿倍は目を開け、豆麻とウンノの方を見た。
「誇るが良い。そなたら夫婦の父は、倭国の偉大な勇者だ」