『第49話』同時攻撃作戦:攻撃前夜
熊津城を攻略する部隊は山を越えて、ほとんど一直線に熊津城を目指していた。
方位磁石もない時代である。
いくら自国の領土とはいえ、無闇に山を突っ切れば迷う危険もあるが、黒歯常之は苦も無く最短経路を見つけて進軍していった。
それは夜でも変わらない。
兵たちが疲れていなければ、暗くなっても山あいをくぐっていくように命じた。
「おそらく蘇定方は百済の民に道案内させながら、太陽の動きも見て、任存城へ進軍したのだろう。それだけでも見事な手腕だが、さらに俺は夜でも道がわかる」
「夜目が利くから、というわけではなさそうだな」
黒歯常之が得意げに話し、博麻がそれに応じる。
黒歯常之の隣には薩夜麻がおり、この二人は馬に乗って進んでいるわけだが、博麻は薩夜麻の馬のくつわを取っているため、駆け足のまま薩夜麻越しに会話していた。
そして博麻のかたわらにはラジンがいる。
彼女はほとんど口を開かないが、それでも息を乱すことなく博麻についてきている。
「まあな。ここら一帯は、任存城を任されていた俺にとって庭のようなものだ。あの城から熊津城や泗沘城へ至る道は、だいたいわかっている」
この黒歯常之の言葉に、なるほどと博麻は思った。
「強行軍になるが、この戦も速さが重要だ。泗沘城が攻められたとなれば、蘇定方も泗沘城へ援軍に出るだろう。俺たちはその隙に熊津城を落とさなければならない」
「蘇定方が援軍に出ず、熊津城を守るという可能性はないのか」
「それもあるが、十中八九、あいつは泗沘城を救援しに行くだろう」
「なぜだ?」
「泗沘城と熊津城、どちらも同じ規模の城だが、泗沘城は王都だった地だからな」
博麻は一瞬考えてから、合点がいった。
「そうか、豊璋王子か」
それを聞いた黒歯常之は満足げにうなずいた。
「王都を奪い返され、そこで豊璋王子に新たな王位を宣言されたら、百済全土の民に希望を与えてしまう。唐軍はそれを恐れているわけか」
「ご名答。だからこそ熊津城は手薄になる」
道の先を見据える黒歯常之の目は鋭い。
はるか先にある熊津城という獲物へ狙いを定める、鷹のような目つきだ。
「熊津城さえ落とせば、泗沘城も簡単に落とせる。これで唐軍は総崩れだ」
黒歯常之は笑みを浮かべたが、そこにラジンが声をかけた。
「新羅の軍は加わっているの?」
この問いに、黒歯常之はうなずいた。
「もちろん。ただ、新羅軍は後方支援に徹するだろう」
「前線には出ないということ?」
「偵察兵からの報告でも、新羅軍には余裕がないとのことだ。潜入してくる兵などには警戒しなければならないが、前線で待ち受けるような兵力はないと考えられる」
それを聞いたラジンは、残念に思ってうつむいた。
母ユナを救出するためには、新羅の将軍の一人、張堯を追い詰めなければならない。
張堯のことを調べるために、少しでも位の高い新羅の軍人を捕らえて尋問したいところだ。
だが、後方支援に徹する新羅軍にたどり着くのは難しい。
熊津城を守る主力は、あくまでも唐軍なのだ。
「そう気落ちするな」
ラジンの表情は見えなくても、黒歯常之は彼女の雰囲気を察したようだ。
「俺たちは手薄になった熊津城を攻撃する。そして立ちはだかる唐軍さえ打ちのめせば、おのずと相手は総力を挙げるため、余力のない新羅兵も戦わざるをえなくなる」
そこで一呼吸おいてから、彼は博麻に目を向けてきた。
「お前たち親子は、その張堯とかいう武将を追いたいのだろう。ならば思う存分に暴れてくれ。新羅兵に逃げる隙も与えずに城を落とせば、新羅兵も捕まえ放題だ」
焚きつけてくる物言いだったが、博麻は「もっともだな」と返した。
任存城を出発してから四日、熊津城が見える山の上に到着し、陣を張った。
陣幕で一晩過ごした後、博麻や諸将が外に集まり、東へ目を向けた。
「あれが熊津城ですか」
白江を越えた先にうっすらと町らしきものが見えるため、薩夜麻はそれを指差した。
「そう、ただしあれは城下町だ。肝心の城は、あの山の影に隠れている」
答えた黒歯常之は、薩夜麻が指差した先から、少し北側に指を向けた。
白江の手前に小さな山がある。
その山は南へゆるやかに傾斜して途切れているため、そこから白江と熊津城の町並みが見えるが、ここからでは山で城郭が見えない。
「見つからず駐留できるのはここまでだ。あとは素早く攻め入る」
「白江はどうやって越えるんだ」
博麻が尋ねると、黒歯常之はこの山の下に広がる平原を指差した。
「方法は二つある。一つはイカダなどを作り、この山から流れているあの小川を下って、そのまま白江を渡る」
次に黒歯常之は北東を指差した。
「もう一つは、熊津城の北側から徒歩で白江を渡る方法だ」
「徒歩だと?」
「そうだ。白江は熊津城の東、北、西を守るように流れているが、北側だけは浅い。雪解けで増水していても、慎重にいけば歩いて渡れるさ」
「冗談ではなさそうだな」
博麻は眉間にしわを寄せ、苦笑いした。
黒歯常之はその反応が面白かったようで、含み笑いをこぼした。
「なんや、今さら水が恐いんか」
横から土師がからかってきた。
「そうじゃない。渡っている最中は無防備だ。唐兵に攻撃されたら大勢が死ぬ」
「へっ、そんなん無視して渡れば、わしらがやり返す番や。やられた以上にやり返せば、こっちの勝ちじゃ」
土師は本気でそう思っているようで、博麻は何も言い返さずやれやれと首を振った。
「それで、軍をどう分けるのですか?」
薩夜麻が尋ねた。
「今日からこの山の木を切り倒してイカダを作るとして、一日千人分が限界です。鬼室福信どのの泗沘城攻めに間に合うかどうか」
「それなら心配ない」
「え?」
「向こうに行って、山の南側を見てみろ」
黒歯常之に言われた通りに、薩夜麻は周りの者から離れて、山の南側を見下ろした。
山を下った先には小川がある。
この小川は西から東へ流れて白江へたどり着くが、その小川にずらりとイカダが浮かんでいた。
正確な数はわからないが、うまく乗れば二千人は渡れるだろう。
薩夜麻は走って戻ってきて、黒歯常之に問いかけた。
「あれはどういうことですか? いつの間に、あれほどのイカダを?」
「二週間ほど前から、山村にいる民に作らせておいただけだ。任存城まで来なくて良いから、丈夫なイカダをとにかく作れと命じておいた」
「つまり、この戦を見越して?」
「大したことではない。いずれ熊津城に攻めるのはわかりきっていた。俺はその時のための準備をさせておいただけに過ぎない」
そして黒歯常之は、集まった将たちを見渡した。
「すでに蘇定方は城を発ち、南の泗沘城へ向かった! この機会を逃す手はない!」
黒歯常之の掛け声により、諸将の顔が一段と引き締まる。
「出撃は明日の明け方! 軍を二手に分け、熊津城の西と北から同時に攻めるぞ!」
「おっしゃあ! ほんで、どう分かれるんや?」
「西は遅受信隊と土師隊、北は俺と筑紫隊で攻めたいと思う。異論はないか?」
諸将はうなずいた。
「よし、それまでは各自で戦支度だ。ただし煙は一切出すな! 暗くなっても火を焚くことを禁ずる!」
その指示を諸将は了承して、各々の陣幕に戻っていった。
出撃まで一日を切ったため、戦支度はどこも大急ぎだ。
また火を焚くこともできないため、まともに活動できるのは日暮れまでになる。
「折れた矢がないか確認してくれ。刀槍の手入れも怠るなよ」
薩夜麻も部下たちに指示を飛ばしながら、自分の武具の状態も確認する。
兵たちは自分や仲間たちの武具を念入りに点検していたが、博麻とラジンは素振りを始めていた。
武具の手入れと稽古は二人の日課であるため、言われずともすでに終わっていた。
「ラジン、剣の具合はどうだ」
博麻は斬馬刀を振りながら、隣で同じく素振りをしているラジンに話しかけた。
「問題ないよ。何か気になった?」
「その剣が痛んでいないか心配になっただけだ。お前の父親が亡くなってから、幾度となく使い続けているからな」
ラジンの剣は父が使い続けた剣である。
百済が敗北した戦から使われているため、およそ二年以上は実戦にさらされている。
「柄は取り替えたばかりだし、刀身も問題ないよ」
ラジンは素振りを止めて、剣を見せてきた。
博麻も手を止め、差し出された剣をじっと見た。
「たしかに、問題なさそうだな」
博麻は納得してうなずく。
ラジンの剣は、他の百済兵が持つ剣とは違う。
長さはほとんど変わらないが、刃は少し分厚く、鋭さと硬さも良好だ。
おそらく戦の時に百済軍から配られた剣ではない。何か別の機会に手に入れた、特別な剣なのだろう。
「おじさんこそ、新しい武器の具合はどう?」
ラジンは斬馬刀を指差してきた。
「良い感じだ。まだ人には試してないがな」
「明日、試すことになりそうだね」
「まあな」
にやっと博麻は笑い、立てた斬馬刀の先を見上げた。
刃は陽光を跳ね返し、銀色に輝いている。
今までの斧よりも容易に敵兵の鎧兜を砕き、肉体を断ち切るだろう。
しかし同時に胸にしこりを抱いていた。
この斬馬刀なら多くを殺せる。
けれども、いたずらに死体を増やすことが目的ではない。
「ラジン、一つ良いか?」
真剣な目をした博麻の様子に気づき、ラジンもまっすぐ体を向けてきた。
「なに?」
「今回の戦もそうだが、これからは、少しでも位の高い敵を優先して討ち取ろう」
「位の高い敵……」
「なるべく殺す数を減らしたい。指揮している人間を討ち取れば、それが叶う」
博麻の提案に、ラジンはうなずいた。
「わかった。狙えるなら、将を狙う。そういうことだね」
「そうだ。もちろん向かってくる敵には遠慮するな。一番大切なのはお前の命だ」
「うん」
それから博麻とラジンは素振りを終えると、早々に陣幕に戻って休んだ。
次の夜明け前にここを発ち、熊津城の北側に回りこむ。
白江の冷たい浅瀬を渡り、城にこもる敵兵に向かって突撃する。