『第31話』半島戦争、開幕:倭軍の陣幕にて
こちらの非を認めて、百済軍との関係修復を試みるか。
それとも、あくまで二人の無実を支持するか。
交渉事の最高責任者として任命されている秦にとって、この事態は頭が痛くなるばかりだ。
その悩みは陣幕に戻った後も変わらず、むしろひどくなった。
「秦どの、黒歯常之はなんと?」
「本当に薩夜麻どのは、百済の民に狼藉を働いたのですか?」
「引き渡しの交渉は受けてくれそうなのか?」
百済の砦から帰ってきた秦に待ち受けていたのは、仲間の将からの質問の嵐だ。
多くの将は百済という異国に来ただけで、まだ気持ちが浮ついている状態だ。
百済人と難しい話はもちろん、そもそも百済語を話すことすら危うい者が大半である。
そんな倭の陣営の中で丁寧に百済人と交渉できるのは、元外交官である秦や、名門豪族である物部くらいだ。
ゆえに秦に対する期待や重圧は凄まじいものになっている。
「皆さん、落ち着いてください」
秦は諸将の質問攻めを制してから、陣幕の奥へ進んだ。
倭の将が集まったこの陣幕はとても大きく、中央に円形の卓が置かれている。
その円卓の中心はくりぬかれ、輪のようになっている。
入口から見て、中央奥に座るのは阿倍 比羅夫だ。その左隣が秦の席となっていて、彼が座ると、薩夜麻の席だけを残して円卓が埋まった。
「秦どの、大変なお役目ご苦労でござった」
口を開いたのは、阿倍の右隣に座る物部だった。
物部が労いの言葉をかけたことで、浮足立っていた将たちは決まりが悪そうに顔を見合わせ、騒ぐのをやめた。
慌てるばかりで秦を労わなかったことを恥じたのだろう。
「物部どの、ありがとうございます」
「うむ……では秦どの、今の状況を一から説明していただきたい」
「わかりました」
秦は席から立ち上がり、説明を始めた。
博麻と薩夜麻がなぜ捕まったのか、黒歯常之はどんなことを言ってきたのか、脚色なく、なおかつわかりやすい言葉で説明した。
「以上が、現在の我らと百済軍の状況です」
秦が話し終えても、質問は飛び交わなかった。
先ほどの騒々しさとは打って変わって、場の空気は重くなっている。
誰から発言するべきか、互いにうかがっているような雰囲気だ。
「なんや、こりゃ葬式かい」
沈黙を破ったのは土師だった。
「要はわしらの仲間二人が濡れ衣を着とるっちゅうことやろ。そんなら下手に出ることはないわ。堂々と取り返したらええんや」
「なっ……そ、そのようなことをすれば、百済との同盟に傷が!」
秦が驚いて声を上げた。
それを聞いた土師は、腕を組んだままうつむいたかと思えば、堰を切ったかのように笑い始めた。
しばらく土師の高笑いが続いたところで、物部が机に拳を打ちつけた。
「馬鹿笑いをやめろ。言いたいことがあるなら、さっさと言え」
物部がひと睨みすると、土師は笑うのを止め、笑い過ぎてのけ反っていた体を戻した。
「わしが言いたいのは、目先のことに囚われるなっちゅうことや」
「目先?」
秦が問いかけ、土師はうなずき返してから続けた。
「わしらは鬼室福信という百済軍の大将と交渉し、その上で豊璋どのを百済王として送り届けることになった。
せやったら、このいざこざも鬼室福信か豊璋王のどちらかに届けて、それから裁いてもらうべきなんじゃ」
土師の意見を聞いた諸将は、意外そうな顔で聞き入っていた。
突拍子もない意見を発するかと思っていたが、土師の意見は至極まっとうなものだった。
「落ち着いて考えればわかることやろ。たいして調べもせずに、わしらの仲間二人を牢に閉じこめたのは百済の落ち度や。
しかもそれをやったのは、大将でもなんでもない一介の将ときたもんや。こんな目先のものに囚われて、仲間が処刑されるのを待つなんて、阿呆のすることやで」
「土師どのの言うことはもっともだ。しかし現状は違う」
「あん?」
「二人の疑いが晴れないのも事実だ。私も二人を信じているが、まだ真実には誰も」
「……あんた、薩夜麻と博麻が、意味もなく女を手籠めにして殺したって言いたいんか」
土師の声が低くなる。彼が怒気をにじませたことで、空気がどんどん冷えていく。
その時、最奥に座る阿倍が動いた。
無言で右手を前に出し、険悪になりかけた空気を止めた。
全員が静かになったところで、阿倍は口を開いた。
「外が騒がしいな」
その言葉を聞いた途端に、諸将の目が入口のほうを向く。中には腰の剣に手をかけ、いつでも戦えるような気構えをとる者もいた。
しかし阿倍が言ったのは、敵襲という意味ではなかった。
よく耳を澄ませば、陣幕の外で誰かが言い争っている声が聞こえる。
片方はこの陣幕を守る番兵で、もう片方は年若い少年のような声だ。
土師と物部だけが、その若い声がラジンのものだと気づいた。
「何度も言わせるな。大事な用があるから、そこの陣幕に入れてくれと言っているんだ」
ラジンは諸将がいる陣幕に入りたがっているようだ。
「黙れ! こんな真似をして、まったく何を考えているんだ!」
対する番兵は大声で拒否している。その上でラジンについて何か怒っているらしい。
なんだなんだと諸将がざわめくが、阿倍は鋭い声で「通せ!」と言った。
その言葉が響いた瞬間、またも陣幕の中が静まり返った。
少しの間があってから、番兵がおずおずと陣幕の入口を開けた。
現れたのはラジンだったが、彼女の姿に一同が目を剥いた。
彼女の服や鎧には、多量の血が飛び散っていた。刺青がある頬にも血が飛んだのか、それを乱暴にぬぐった跡が見える。腰には木刀を差していて、それにも血が付着している。
しかし驚くのは彼女の姿だけではない。
彼女は片手で男を引きずっていた。男は気絶したまま足首をつかまれ、仰向けの体勢で引きずられている。
小柄で、武装はしていない。顔は血だらけで腫れあがり、口には布をかまされ、右腕はおかしな方向に曲がっている。
「そこをどいて」
ラジンがそう言うと、座っていた将が慌てて席を立った。
どうも、とラジンは小声で礼を言ってから、空いた円卓の下をくぐり抜けて、くりぬかれた円卓の中心に立った。
手には男を引きずったままだったが、中心に立ったところで、つかんでいた足首を放り捨てた。
乱暴に足を落とされても、血だらけの小男はまったく動かない。
まさか死んでいるのかと周りの将は思ったが、よく見れば小男はかすかに胸が動いているのがわかる。気は失っているが、生きてはいるようだ。
彼女の正面には阿倍が座り、その左右の席に秦と物部がいる。土師はそこから少し離れて、右前方の席に座っている。
阿倍はラジンの顔を覚えていたようで、無言で値踏みするような目をしている。
ラジンも負けじと阿倍と目を合わせる。睨みつけることはないが、堂々とした態度で阿倍の目を見据えた。
「ラジン……これはどういうことだ?」
最初に問いかけたのは、物部だった。
「ここは将が軍議を行う場だ。お前が軽々しく足を踏み入れて良い場所ではない」
やはりと言うべきか、陣幕に乱入してきたラジンを物部は厳しく叱った。
知らない仲ではないが、権威やしきたりに厳しい彼にとって、ラジンの乱入は暴挙だった。
「阿倍どのがお目通りを許したんや。話くらいは聞いてもええじゃろう」
土師はラジンのことを擁護した。
彼も最初は驚いていたが、これは面白いことが起こりそうだぞと喜んでいる。
「そんでラジンよ、そいつはなんや? ずいぶん痛めつけたらしいな」
早速、土師は倒れている男を指差した。
「お前一人でやったんか」
「まあね」
ラジンが肯定すると、周囲がざわついた。
痛めつけること自体は難しくない。
しかし、それを平気な顔で行い、その上で死体のように無造作に引きずってきたのだ。
まだ少年にしか見えないラジンに、諸将は不気味なものを感じていた。
「わかりやすく、一から説明してくれんか」
「良いよ。といっても、大したことじゃない」
「ほう」
「昨日の夜のことだ。博麻のおじさんが若さまを探しに行ったきり、中々帰ってこないから、僕も後から追いかけたんだ。その途中で、暗闇でこの男に出くわした」
ラジンはそこで、足元に倒れている男に目を向けた。
「ちょうどその時、こいつの他にも複数の足音が聞こえたよ。そいつらは散り散りになって消えてしまったけど、こいつは僕と鉢合わせになり、いきなり刃物を向けてきたんだ」
「そして返り討ちにしたというわけかい」
土師の言葉にうなずいてから、ラジンは話を続けた。
「動けなくなるまで痛めつけてから、こいつを陣幕に連れて戻ったけど、おじさんも若さまも帰ってこなかった。それで朝になってから、二人は捕らえられたと知ったんだ」
そこまで話してからラジンはしゃがみ、男の髪をつかんで頭を引っ張り上げた。
「耳には自信があるから、さっきまでこの陣幕で話していたことも聞こえていた……あの二人の濡れ衣は、僕が晴らすよ」
それからラジンは、男の頬を何度も平手打ちした。
無表情で頬を叩き続けるラジンに、一同は呆然としていた。
殺気や怒りなどは感じないのに、頬を叩く勢いに容赦がない。
「ぐっ……う、ううっ……」
十回を超えたあたりで、男が目を覚ました。
とはいえ、顔がひどく腫れ上がっている上に、今も激しく叩かれ続けたため、まぶたはまともに開いていない。
「僕の声が聞こえるか。聞こえたら、僕の足先を一回だけ叩け」
百済語でラジンは問いかけた。
自分で舌を噛み切らないように、男の口には布で作った猿ぐつわが嚙まされている。
そのような状態で、男はもごもごとうめき声を出し、折れていないほうの手でラジンの足首をそっと叩いた。
「今のと同じように、聞かれたことに答えろ。違うと言いたいなら二回だ。良いな?」
ラジンはそう言ってから、うながすように男の頭を揺すぶった。
男は髪を引っ張られる痛みにうめきながら、慌ててラジンの足を一回叩いた。
次にラジンは、秦のほうに振り向いた。
「秦さま、お願いしたいことがあります」
「な、なにかな?」
いきなり話しかけられて、秦は戸惑いを隠せなかった。
「僕が百済語で何を問いかけているのか、倭の言葉に直してください。そして、それを全員に聞かせてください。この男は肯定なら足を一回、逆なら二回叩きます」
ラジンが倭の言葉でそう言うと、一同はざわついた。
「……わかった」
秦が了承したところで、ラジンは「ありがとうございます」と言って、男のほうに向き直った。
「お前を追いかけた男の顔は、わかるか」
この問いに、男は足を二回叩いてきた。
「なら、その男は小さな斧を持っていたか」
今度は足を一回叩いた。
「女を矢で殺したのは、お前か」
男は二回叩いた。
「殺したのはお前の仲間か」
少しためらってから、男は一回叩いた。
「百済語を理解しているようだが、お前は百済人か」
男は再びためらっていたが、ゆっくりと一回叩いた。
次の瞬間、ラジンの拳が男の腹に入った。
突然の衝撃と激痛に、男はぐぼっという吐息をこぼし、それから何度も咳きこんだ。
猿ぐつわのせいで、歯を食いしばって痛みに耐えることもできず、顔を真っ赤にして激しく咳きこむ。咳きこむごとに口にたまっていた血が、布の猿ぐつわに染みていく。
周りの将はいきなり殴ったラジンにも驚いたが、それよりも血を吐き続ける男の痛々しさに眉をひそめていた。
「僕に襲いかかってきた時、お前、とっさに新羅の言葉をこぼしたよな。あれを聞き逃していたと思ったのか」
新羅という単語が出てきたことで、その場がどよめいた。
「死にたいなら言え、新羅人。水おけにゆっくりと顔を沈めてやる」
男は慌てて首を振り、震える指でラジンの足を二回叩き続ける。
「もう一度訊く。お前は百済人か」
男は二回叩いた。
「なら、新羅の兵か」
少し間があってから、男は一回叩いた。
「仲間も新羅兵か」
男は一回叩いた。
「仲間はどれくらいだ? 人数分、叩け」
男は一定の早さで、六回叩いた。
つまりこの男を合わせれば、七人の新羅兵が潜入していることになる。
「百済人の女を弓で射殺したのは、居合わせた倭人に罪をなすりつけるためか」
男は迷う動きを見せてから、二回叩いた。
ラジンはそれを見て、質問の内容を変えた。
「あの場で女を殺したのは、予定外だったか」
男は一回叩いた。
「しかし、あの女はいずれ殺す予定だったか」
男は一回叩いた。
「女を辱めて殺す。それは後々、倭軍に罪をなすりつけ、百済軍との仲を引き裂くためか」
間があってから、男は一回叩いた。
ラジンは質問を止めて、秦のほうに振り向いた。
最初の質問から秦は通訳を行い、周りの将に聞こえる声で復唱してくれた。
おかげでこの尋問の内容は、倭の将全員に伝わっていた。
「僕の聞きたいことは、これで終わりです。秦さま、ありがとうございました」
「うむ、そなたもご苦労だった。もうこの場に、あの二人を疑う人間はいない。私も、二人を助けるために身を尽くそう」
秦の言葉に、ラジンは頭を下げた。
そこでようやく、彼女は男の髪を手放した。
持ち上がっていた男の頭と首が、どさっと地面に落ちた。
やっと解放されたという安堵からか、男は鼻から深く息を吸い、吐いた。
ラジンはそれを見て、男にそっと耳打ちした。
「忘れるな。僕の大事な人に、お前は罪をなすりつけたんだ」
男の呼吸が、ひくっと止まった。先ほどの安堵は失せて、体がかすかに震えている。
「あの人の身に何かあれば、お前を真っ先に殺すからね。苦しめて殺す方法は、いつでも、いくらでもお前で試せる」
男はさらに驚愕して、呼吸することを忘れている。
ラジンが最後に放った言葉は、すべて新羅の言葉だった。新羅人だった母から教わった。
母国の言葉で脅された男は、心底恐れおののいていた。
三つの言葉を使ってくる目の前の少年が、底知れない小さな怪物に見えた。
「あとはみなさんにお任せします」
ラジンはそう言い残し、最後に一礼してから陣幕を出た。