第3話『倭人』
敷地内の井戸で水浴びをした後に、屋敷の別館に向かった。
石畳、樹木、花々が織りなす美しい庭園を歩いて抜けて、博麻は別館にたどり着いた。
別館は主屋敷よりも小さく、平屋建てだが、造りはしっかりしており、屋敷に見劣りすることのない美しさがある。
しかし異様なのは、入り口と窓に備え付けられた、樫の格子だ。
どの格子も頑丈で、子どもの手首くらいしか通らないほどのすき間しかない。当然、人が通れるはずもなく、ましてや並の道具では破壊できないほどの頑丈さを誇る。
そして、別館の入口には衛兵が三人も立っている。
衛兵たちの厳しい視線の間を通りながら、博麻は別館に入った。
別館の居間には、二人の男がいた。
一人は若い美男で、もう一人はこんがりと日焼けした筋骨隆々の大男だ。
どちらも、倭人だ。博麻と同じ境遇の捕虜である。
この別館は、捕虜となった倭人たちを軟禁するための、収容所である。
「兄貴、お疲れ様です」
「おう、若」
博麻を兄貴と呼ぶ青年は、薩夜麻という。
彼は筑紫氏の豪族の三男で、博麻とは幼馴染だ。百済救援のための戦争に従軍し、博麻と同じように白村江で捕縛された。
博麻とは違い、筑紫氏の部隊を預かる将軍という立場であった薩夜麻だが、彼は幼い時から年上の博麻のことを、兄貴と呼んで慕っている。
そして博麻は薩夜麻のことを、若と呼ぶ。薩夜麻の方が年下でも、豪族という上の身分ゆえに、幼い時からそう呼んでいた。
「待ってたで。遅かったから心配してたんや」
なまり言葉で話しかけてきたのは、土師富杼という大男だ。
彼も薩夜麻と同じく豪族で、出雲の土師氏の生まれだ。豪腕無双の戦士として戦場で暴れ、敵どころか味方も彼を恐れたほどだ。
二人は博麻の戦友である。戦場にて駆け回り、己と味方と敵の血にまみれた間柄だ。
「少し仕事が手間取ってな。それと、黒常にも呼び出されて遅くなった」
黒常の名を聞くと、二人の顔がゆがんだ。
富杼はあからさまに不機嫌になり、薩夜麻も険しい顔になっている。
嫌悪と憎悪、そして侮蔑が彼らの顔に浮かんでいた。
彼ら二人にとってみれば、唐帝国に寝返って倭人をこき使う黒常は、言葉に尽くせぬ腹立たしい裏切り者だ。
「ちっ、あのクズ野郎。さんざん博麻をこき使っておきながらわざわざ呼び出すなんて、ほんまに腹の立つやつやな」
「大丈夫でしたか。あの男は油断ならない悪人ですから」
博麻は二人の気遣いに感謝しつつ、首を振った。
「ありがとう。でも、大したことは言われなかった。ほんの二、三言で終わったからな。それに、俺たちとの約束も、しっかりと守ると言っていた」
「そうか。それなら、良いんやが……ほれ、お前の分の飯はあそこや。たんと食って、はよ寝たほうがええ」
富杼が指差した先には卓があり、卓上には木皿に盛られた焼き飯があった。
「そうだな。まずは食うか」
博麻は椅子に座り、卓上の焼き飯を頬張り始めた。
「じゃあ、わしらはもう寝るで。また明日も朝早くから働くもんでな」
「すみません、兄貴」
富杼と薩夜麻も、自室に戻って休むらしい。
博麻は食事を食べながら、うなずいた。
「ああ、お休み。二人も気にせず休むことだ」
「わかりました。では……」
富杼と薩夜麻は居間から出ていく。
薩夜麻が出ていく直前で、振り向いた。
「兄貴」
博麻は食べる手を止め、扉の近くに立つ薩夜麻の方を見た。
「どうした」
「その……兄貴だけ、無理してませんか」
薩夜麻は悲しげな顔をしていた。
その顔を見て、博麻は微笑みを返して、首を振った。
「心配するな。俺は平気だ」
博麻の答えに、薩夜麻はどこか納得していないようだった。
「お前も、富杼も、そして他の二人も、みんな大変な思いをしている。はたから見れば俺はきつい仕事をさせられているように見えるかもしれんが、俺は俺で、上手くやっている」
さらに博麻は言い添えて、歯を見せて笑った。
それを見て、薩夜麻は泣き笑いのような表情をしてから、うなずいた。
「ありがとうございます。みんな、辛い境遇ですよね」
「そうだ。だから、お互いに支え合って……いつか、故郷に帰ろう」
故郷に帰る。その言葉が、捕虜となった倭人たちを支えていた。
「はい、絶対に故郷に帰りましょう」
薩夜麻はそう言い切ってから、一度頭を下げ、部屋から出ていった。
それから博麻はうす暗い居間で食事をとり、その後、自室に戻って泥のように眠った。
***
「起きろ、ハカマ」
夜明けとともに博麻は起こされた。
起こしたのは、この屋敷に常駐している唐人の衛兵だ。
「早く起きろ、黒常殿がお呼びだ」
衛兵は部屋と廊下をへだてる扉の向こうから、博麻に声をかけてくる。
「わかった、今から着替える」
「あまり遅いと、罰を与えるぞ」
部屋の外から、衛兵は警告を言い渡してきた。
すぐに博麻は薄い掛け布を剥ぎ、むくりと上半身を起こした。
朝日が小さな窓から差しこんでいる。白い光の筋が、博麻の足を照らしている。
窓には樫の格子がついている。扉も頑丈な木製の扉で、素手で破壊することは不可能だ。
部屋自体も狭く、かけ布と、着替えの服以外は何も置いていない。
座敷牢、というものだ。
「朝から黒常が呼ぶとは……何かあったのか?」
博麻は首をかしげたが、考えている暇はない。
手早く布を畳み、下履きを履いてから扉を叩いた。
なお、博麻に貸し出されている衣服は下履きだけで、上半身の服はない。いつも上半身裸で行動し、朱の刺青を隠さず働けと、黒常に厳命されている。
「着替えた。出してくれ」
すると、扉が開いた。
扉の先には帯剣した衛兵が立っていた。
「ついて来い」
衛兵の言葉にうなずき、後ろに付き従って廊下を歩く。
玄関前の廊下で、別の部屋の扉が開き、二人の男が現れた。
一人は唐風の着物を着て、紙を後ろで結い、理知的そうな顔をしている。几帳面で真面目そうな顔つきだ。歳は博麻よりも少し上だが、肌ツヤも良く、豊かなひげも綺麗に整え、清潔感のある美青年と言える。
そしてもう一人は、後ろに付き従っている少年だ。彼は細目で、鼻が低く、頬にはそばかすがあり、あごの輪郭は丸い。小太り、とまではいかないが、中肉中背と言えるくらいの肉付きはある。青年とは真逆の、温和そうな少年だ。
衛兵と博麻は、その二人が廊下に出てきたため、足を止めた。
「氷老殿、弓削君、おはようございます」
博麻が挨拶すると、唐物の服を着た男は、露骨に嫌そうな顔をする。
後ろに控えている少年は小声で、「おはようございます」と言って頭を下げた。
「ちっ、お前も呼び出されたようだな」
氷老と呼ばれた男は、冷たい声で吐き捨てるように言った。
この男も、黒常の監視下に置かれた倭人の捕虜である。
しかし彼が捕虜になった経緯は、博麻や薩夜麻などとは異なる。
彼は倭と唐が戦を始める前から、留学生として唐の長安に滞在していた。頭脳明晰、語学も堪能な秀才として、倭国でも有名だった。遣唐使、外交官としての経歴も持っているため、戦が始まるまでは唐の官僚とも友好的に仕事をしていた立場だった。
そのため彼は倭人でありながら、故郷の倭が、唐帝国に戦争を仕掛けたことに不満を持っていた。
戦が始まってから、氷老の立場は危ういものになった。
今まで唐人から寄せられていた尊敬は消え、代わりに敵意を向けられた。
それで済めば良かったものの、唐軍が勝利し、倭軍が敗北したという報せが長安に届くや否や、向けられていた敵意は、侮蔑や嘲りに変わっていった。
そのため彼は戦に踏み切った倭国に不満を抱くのはもちろん、従軍していた博麻、薩夜麻、富杼の三人にも、明らかな嫌悪を向け続けている。
「弓削(ゆげ)、行くぞ」
氷老は鼻を鳴らし、そばにいる少年に声をかけてから、別館の玄関から出ていく。
同じ捕虜として仲良く行動する、という姿勢は微塵もない。
弓削と呼ばれた少年は、もう一度、博麻に一礼してから氷老に続いて出ていった。彼は氷老の従者だが、他の捕虜にも気を遣う素振りがあった。
「ハカマよ、嫌われたものだな」
今のやり取りを見て、唐人の衛兵は面白そうに笑っていた。
彼らから見れば、氷老も博麻も、敗戦国の捕虜だ。
氷老と弓削は従軍していなかったため、捕虜の中でも少しだけ待遇が良いのだが、それでも、唐の人間に従うことでしか生きられない立場だ。
そのような境遇の者どうしが、いがみ合っている。
唐の人間からすれば、これほど優越感に浸れることはない。
「嫌われるのは慣れている。あの二人に迷惑をかけたのは、間違いないからな」
博麻はそう言ってから、別館を出た。
博麻、薩夜麻、富杼、氷老、弓削、以上の五人が、この長安の都で捕虜になっている倭人たちである。