第63話『奴隷』
「お前は処刑されない」
黒常の一言に、博麻は目を丸くした。
「どういうことだ」
博麻が問うと、黒常は懐から竹簡(竹の巻物)を出した。
竹簡の端々は焦げているが、まだまだ使用できる状態だ。
そしてその竹簡に、博麻は見覚えがあった。
「それは、典了が持っていた、奴隷契約の竹簡……!」
「そうだ。お前を奴隷として売り買いして、その契約を交わした人間が所持する竹簡だ。あの焼け跡を調べているうちに、偶然、発見したものだ」
黒常は竹簡の結び糸をほどき、博麻の前で竹簡を開く。
記されている文章はほとんど焼けておらず、綺麗なものだった。
そして最後の一文まで開かれたところで、博麻は目を見開いた。
「契約者……黒常、だと」
竹簡の結びの文には、奴隷を所持している人間の名前と、認証の印が入る。
博麻は氷老に奴隷として売られ、典了のもとで保管される在庫扱いだった。
もちろんそれも氷老の計略の一部だったため、買い手がまだいない博麻の竹簡も、当然ながら契約者の名前が空欄だった。
「今日からお前が俺の主、ということか? 面白い冗談だな」
一度は驚いた博麻だったが、すぐに失笑した。
だが、黒常はふざけ半分の笑みを浮かべることなく、鋭い目つきで睨みつける。
「さえずるなよ、奴隷風情が」
そこで黒常は鍵を取り出し、なんと格子を開け放った。
看守などの許可を得ているのか不明だが、黒常はそのまま牢の中に押し入り、博麻の喉元をつかんで力任せに壁に押しつけた。
わずかにつま先が床から離れ、博麻は息苦しさにもがく。
「う、ぐっ……お、まえ……!」
「簡単に死ねると思ったか? 俺の道を阻んでおいて、逃げられると思ったのか?」
壁に押しこまれたまま、片腕で宙づりにされて、博麻は足をバタつかせる。
黒常の瞳は、怒りに染まっていた。
だが、そこに殺意はない。
博麻を殺すつもりはさらさらないのだ。
むしろ強い執着心を抱いており、まるで少年が初めて昆虫を捕らえたかのような、残虐な好奇心を抱いた目をしている。
「よく聞け。お前は死ぬまで、戦場でこき使ってやる。四肢がちぎれても、心が壊れても、血潮の舞う戦場で剣を振るうしかない。乾くことのない血だまりの中でしか、お前は息を吸い、眠ることを許されない」
そして黒常は、牢の出入口に顔を向けた。
「早く持ってこい」
「は、はい!」
返事をして現れたのは、黒常の私兵たちだった。
そのうち一人は炎の灯った松明を、もう一人は複雑な形をした鉄の棒を持っている。
博麻はそれらの物を見て、何かを察した。
「はな、せ」
「ああ、離してやるよ」
黒常は微笑み、博麻を床に叩きつけた。
「がはっ!」
「ほら、早く押さえておけ」
黒常の指示に従って、何も持っていない私兵たちが、博麻の両腕と両足を押さえつける。
博麻はうつ伏せの体勢で床に押さえつけられ、身動きがとれない。
なんとか顔だけ見上げると、黒常が目の前にいた。
彼は鉄の棒を、松明の炎で熱していた。
「立派な刺青だな」
博麻の背中を見て、黒常はそう言った。
背中の刺青は、息子が武運を祈って彫ってくれたものだ。
博麻にとっては息子とのつながりを感じられる、大切な刺青だ。
「だが、お前は奴隷だ。飼われる奴隷には、この烙印こそふさわしい」
黒常は赤熱した鉄の棒を、博麻の背中に押し当てた。
「ぐぁあああああっ!」
皮膚と肉が焼かれ、博麻は苦痛に叫ぶ。
生々しい、人肉の焦げた臭いが牢内に広がる。
「こんなものかな」
そこで黒常は鉄の棒を離した。
博麻の背中には、『狗』の漢字の烙印が刻まれていた。
飼われた犬、人間以下の畜生、という意味が込められている。
「き、さま……殺してやる、ぞ……!」
拘束を解かれた博麻は、よろめきながら立ち上がる。
黒常はそんな博麻を見て、どこか楽しげな顔になった。
「ああ、やれるものならなってみろ。これから先、機会はいくらでもある」
「先、だと? ……今、この場でだ!」
博麻は拳を振りかぶり、跳びかかった。
だが、黒常は反撃の拳を先に入れて、逆に博麻を殴り飛ばした。
その衝撃で、ついに博麻は気を失った。
烙印を押された直後に殴りかかる博麻の闘志に、その場にいた私兵は冷や汗をかいた。
黒常だけは満足そうな笑みを浮かべ、気絶した博麻を見下ろしている。
「これで、お前はもう逃げられない」
黒常という男の本性は、まさに蛇そのものだ。
あの夜、博麻に敗北したことで、彼は出世街道から転落した。
博麻の証言によって、唐帝国に対する忠義を疑われることはなかったが、彼は新羅と倭国を攻める大将に昇格できなくなった。
代わりに命じられた職務は、北と西の異民族を討伐する軍の指揮だった。
ただし、ほとんどの異民族の国家は、唐帝国に従っている。
その地で暴れているのは唐帝国に反発することしか能がない、有象無象の蛮族だけだ。
すなわち西域に派遣されるということは、イナゴのように湧き出る反乱分子を潰し続けるだけの、キリのない戦を押しつけられたということだ。
事実上の、左遷である。
「お前たちも今から覚えておけ。どんな戦場でも、こいつは最前線で戦わせろ。ただし捨て駒にはするな。生かさず殺さず、できるだけ長い間、戦場に縛りつけろ」
「は、ははっ!」
黒常の中にあるのは、激しい怒り、悔しさ、嫉妬だ。
博麻は誰にもできないことをやってのけた。
己の身を犠牲にして仲間を救い、愛した女を救い、故国を守り、戦を止めた。
どれも、黒常が為せなかったことだ。
それを思うだけで、黒常は自我を保つことすらできない嫉妬と憎悪に襲われる。
だからこそ博麻を奴隷にして、処刑を阻止してやった。
もし博麻がここで死ねば、永遠に勝てなくなる。
完全な勝ち逃げなど、許してたまるか。
「這い上がってやる。勝って、勝ち続けて、至高の栄誉と贅を、最も近くで見せつけてやる。仲間のために奴隷に落ちたことを、必ず後悔させてやる」
黒常の復讐は、これから始まるのだ。
勝者は俺、敗者はお前。
両者の境遇の差を思い報せることだけが、黒常の生きる意味となった。
「そしていつか殺してやる……誰の手でもなく、俺の手で」
倒れ伏す博麻に対し、黒常は宣言した。
以後、彼は軍を率いて、西域に出立した。
奴隷となった博麻をともない、異民族との終わりなき戦におもむくために。