第32話『火計』

 一方、博麻は老猿が放り投げた巻物を拾った。
 すぐにそれを懐に入れて、薩夜麻とともに逃げ出す。

 すでに芙蓉園全体に、蜂の巣をつついたような騒ぎが広がっていた。

 どこもかしこも衛兵たちの怒号と、けたたましい警笛の音が響いている。

「くそっ、こいつはマズいな」

 警戒度が上がっていく様子を見て、博麻は顔をしかめた。

 今は物陰に隠れながら園内を移動しているが、もたついていたらさらに多くの衛兵が集まってくることだろう。

「兄貴、老猿殿は、今頃……」

 薩夜麻は、老猿のことが気がかりのようだ。

 博麻も想いは同じだ。
 しかし、こうしている間にも衛兵たちが動きだしている。

「今は何も考えるな! あいつが命がけで託してくれたこの計画文書を、俺たちが守り切るんだ。ここまで来て、俺たちまでも捕まるわけにはいかない!」

「は、はい!」

 博麻の叱咤を受け、薩夜麻も気持ちを切り替えた。

 おそらく老猿は大屋敷にいた人間に捕縛され、厳しい尋問あるいは拷問を受けているかもしれない。

 だからといって博麻たちも捕まってしまえば、老猿が捨て身になって口笛を吹き、外の博麻たちに文書を託した意味がなくなる。

 これはただの機密情報ではない。

 倭国を救い、唐帝国の野望を止める情報なのだ。

 決して無駄にはしない、と博麻は決意した。

「若、先に門の近くまで逃げろ。俺はあの策を仕上げてから、門まで行く」

「わかりました!」

 博麻の言葉に、薩夜麻はうなずいた。

 二人は老猿から借りた仮面を装着し、闇夜の中で二手に分かれた。

 この庭園に集まった衛兵たちは、唐帝国の中でも抜きんでて優秀だ。
 ひとたび不審者を追う態勢をとれば、猟犬のごとく追跡を開始する。

「こっちに足跡があったぞ!」

「こちらの茂みも、踏みしめた跡がある!」

「決して逃がすな! 草の根分けてでも、曲者の仲間を探し出せ!」

 彼らは血眼になって、博麻と薩夜麻の痕跡を追いかけていった。

 すでに曲者の一人である妓女は、黒常の手によって捕縛されている。

 しかし肝心の文書は盗まれてしまい、宴会に参加していた氷老も負傷している状態だ。

 芙蓉園の特別な衛兵隊にとっては、このまま妓女の協力者を捕まえられなければ、この芙蓉園が開かれて以来の大失態である。
 まず間違いなく何人もの衛兵隊長の首が飛び、さらには関連する官僚や軍人たちも責任を負うことになる。

 それだけは避けねばならないと、衛兵たちは躍起になって博麻たちを捜索していく。

「いたぞ! あっちの館に逃げ込んだ!」

 ある衛兵が足跡を追いかけていくうちに、ついに博麻の姿を捉えた。

「あの建物に逃げ込んだ! 囲め囲め!」

「すべての出入り口に散らばれ! 曲者を逃がすな!」

 衛兵たちは互いに声をかけ合い、博麻が逃げ込んだ建物を効率よく包囲した。

 博麻が侵入した建物は、黒常を含めた皇后派がせっせと武器を貯めこんでいた、あの武器庫であった。

 ただし派閥争いに関係のない衛兵たちは、この建物も芙蓉園の中によくある屋敷か何かだと思い、包囲している。
 あくまで園内を警備する者たちであるため、こうした建物に許可なく入る者は誰もいないのだ。

「埒が明かないな。よし、ここは出入口の監視役以外、全員で突入するぞ」

 ある衛兵隊長が提案する。

 彼の言う通り、このまま出入口を固めているだけでは、捕まえることはできない。

 また建物自体が貴重なものであるため、いつまでも曲者の隠れ場所にさせておくわけにもいかない。

「表と裏の出入り口に五名を残し、他は突入だ! 行けぇえっ!」

 隊長の命じるままに、およそ二十名の衛兵たちが一斉に武器庫へ突入する。

 武器庫の間取り自体は広いが、かなりの武器や物資を収納しているため、暗く、入り組んだ迷路のようになっている。

 松明を持った衛兵が先導し、迷宮のようになっている武器庫を進んでいく。

 どの木箱も大きく、中には人の背丈を超えるほど箱を積み上げている場所もある。
 それゆえ視界はさえぎられ、いくつもの壁に囲まれているようだ。

 そして表と裏から突入した衛兵たちは、いくら歩き回っても博麻を見つけられない。
 それもそのはず、博麻はあえて庭園内に足跡を残し、この武器庫までおびき寄せたのだ。

 隠れる場所に事欠かない武器庫の中で、本気で隠れたならば、そう簡単には見つからない。

 こうして完全に追跡をかわした博麻は、最後尾の衛兵に狙いを定めた。

 木箱の迷宮を大回りして、衛兵たちの後方に回りこみ、最も後ろにいる衛兵の首を縄で絞め上げる。
 襲われた衛兵は、わずかに苦悶の声を上げたが、他の仲間たちに気づいてもらえずに息絶えた。

 博麻は死体を脇にどけると、鎧を剥ぎとった。

「これで、良し」

 博麻は唐の衛兵に変装した。
 左頬の刺青さえ上手く見せないようにすれば、気づかれることはないだろう。

 それから博麻は床に垂らした導火線に火を点けて、その場から姿を消した。

 十数秒後、巨大な武器庫が一気に炎上した。

 これこそ、薩夜麻が案じた一計だった。

 燭台などに使われる予備の油を、武器庫の中で調達し、それを広く撒く。
 仕上げに油を染み込ませた導火線を何本も分岐させて、武器庫の中を網羅させておけば、同時多発的に炎は燃え広がる。

 出入口の外で待機していた衛兵たちも、あっという間に燃え上がる建物を見て、呆然となった。

 建物内部に収納されていた武器、農具などの可燃物に火が燃え移り、その火がどんどんと広がっていく。

 入り組んだ武器庫の中にいた衛兵たちは、逃げる場所もなく、次々と炎と煙にまかれて死んでいった。

「火事だ! もっと人を呼んで来い!」

「早く火を消せ! 中にあいつらが!」

「どうやって消すんだよ! もう助かりっこない!」

 裏口の外にいた衛兵たちが右往左往している中、裏口の扉が開いて、中から煤だらけの衛兵が転がり出てきた。

「やった! 一人出てきたぞ!」

「おい、大丈夫か⁉ しっかりしろ!」

 生きて帰ってきた衛兵に、外で待っていた衛兵たちが群がる。

 出てきた衛兵は、煤で真っ黒になっていた。
 鎧はもちろん顔も体も、どこもかしこも黒い煤で覆われている。

 それこそ、頬に刻まれた朱の刺青も見えないほどに。

「何があった? 一体、どうして火事になった⁉」

 衛兵たちは出てきた仲間を介抱しつつ、建物内で起こったことを問いかけた。

 次の瞬間、その煤だらけの衛兵が腰の剣を抜き、あっという間に二人の首筋を斬った。

 仲間に化けた博麻に、彼らは気づけなかったのだ。

「えっ」

 何が起こったのかわからぬまま、頸動脈を斬られた衛兵二人は絶命した。

 残る衛兵は三人。
 その三人も不測の事態に頭が追い付かず、なんとか武器だけでも抜いて応戦しようとした。

 だが、博麻にとっては遅すぎる動きだった。

 一瞬で距離を詰めて一人の喉を斬り裂き、返す刀でもう一人の腕を斬り落とす。

「こ、このっ……!」

 最後の一人が博麻の背中に剣を振り下ろしたが、博麻は身をひるがえしてその剣をかわし、すれ違いざまに胴を斬り裂いた。

 瞬く間に五人の衛兵が死体となり、そこには博麻一人だけとなった。

「これで武器庫はつぶした。倭国侵略計画は、大きく出遅れる」

 燃え上がる武器庫を一度振り返ってから、闇夜の中へと消えていった。

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