第57話『出航』
翌朝、彼らは船を用意して、対馬から出航した。
薩夜麻たちは新たな服に着替え、一晩の休息をとった。
これまでの逃避行による疲労は取れていない。一日休んだだけで回復するようなものではない。
だが、彼らはすぐに対馬を出ることに決めた。
博麻が託してくれた巻物を、倭国本土に届けることが最優先なのだ。
それまで気を抜く暇はない。
対馬に唐軍の追っ手が来るかもしれない。
「その文書を大宰府まで届ければ、間違いなく倭国全土に広まるでしょう」
豆麻がそう言った。
現在、船には薩夜麻たちだけではなく、豆麻とウンノも乗っている。
二人は対馬の防人だが、薩夜麻たちを警護する使者としての役を買って出た。
「大宰府……たしか、白村江の戦が終わってから、筑紫国に設置された行政機関だったな。倭国の防衛の要、対外戦争の前線基地だと」
薩夜麻たちが大宰府について知ったのは、昨日のことだ。
「そうです。そしてその大宰府の長官は、皆さんもよく知っている、阿倍比羅夫さまです」
「おお、阿倍どのかい。あのじいさん、まだ元気なんか」
土師の問いに、豆麻はうなずいた。
「元気ですよ。今でも兵に武術を教え込むほどです。あの方に文書を届けたら、さらに防備を固めてくれます。朝廷にも使者を送るでしょうし、唐軍の企みは完全に潰えますよ」
今度は薩夜麻がウンノに話しかけた。
「そう言えば、ユナどのは元気か?」
「お母さんも元気よ。足を悪くしているから、あまり家から出られないけど」
「そうか……今もあの村に?」
「ええ、村に残ってもらって、子どもたちの面倒を見てもらっているわ」
子どもたちと聞いて、薩夜麻と富杼が驚く。
「き、君たちの子どもか!」
「当たり前でしょ。こう見えても二児の母なんだから」
ウンノはニッと笑い、豆麻は照れくさそうに顔をそらした。
薩夜麻と富杼は、感慨深げに顔を見合わせた。
息子や娘のような年代の二人が、こうして立派な大人になり、子を産んだ。
博麻にも、この光景を見せてあげたい。
自分が祖父になったと知れば、博麻はどんな喜び方をするのだろう。
そう思わずにはいられない。
薩夜麻は涙ぐみそうになった顔を隠して、船の行先を見た。
今日は朝から快晴だ。
風は少し強いが、航行する分には問題ない。
晴れているおかげで視界は澄み渡り、行く先に倭国本土が見える。
もう少しで、故郷に帰れる。
薩夜麻は前方を見ながら拳を握り、潮風を胸いっぱいに吸いこんだ。
本土に着いたら、自分の持つ文書を、阿倍に献上する。
それで役目は終わりだ。
兄貴分が命を賭けたことが、そこでやっと報われる。
「おい、後ろから船が二隻、近づいてきているぞ」
氷老が声を上げた。
他の者たちの顔色が変わる。
「あれは倭人の船か」
氷老の問いに、豆麻が首を振った。
「……いいえ、どちらも違います」
「乗っている人間の数や人種は不明だけど、あの船は倭人のものではないわ」
防人としての経験がある豆麻とウンノは、二隻の船が異国のものだと気づいた。
「唐の人間が乗っていたら、おそらくは」
「文書を取り返しに来た、追っ手ね」
薩夜麻の言葉に、ウンノはうなずいた。
そこでウンノは剣を抜いた。
「もしそうなら、おじさんの仇ね。全員、この海に沈めてやる」
「わしもやるで。賊ばかりで力を持て余していたところや」
富杼も首を回して、ゴキゴキと音を鳴らした。
「僕もやります。倭国の海で狼藉を働く輩は、一人残らず仕留めてやりましょう」
豆麻も弓を構え、矢をつがえる。
薩夜麻は思わず笑ってしまった。
追っ手が来た時はマズいと思ったが、今の戦力なら負けることはない。
富杼は倭軍屈指の豪腕無双、ウンノは筑紫隊で最も敵兵を斬った凄腕の剣士だ。
そして博麻の息子である豆麻は、今や人智を越えた弓矢の使い手だ。
負けるはずもない。
唐軍の追っ手など、恐れるに足りず。
「豆麻、予備の弓を借りるよ」
薩夜麻もニヤリと笑い、船に積まれていた弓と矢を取った。
「氷老どの、念のため巻物を渡しておきます」
「うむ。この身に変えても、死守しよう」
氷老は薩夜麻から巻物を受け取り、弓削とともに船首側に避難した。
少しでも敵の狙いから外れるために、二人は目立たぬ場所で身を縮めた。
全員が一丸になっている。
すべては、故郷を守るために。
博麻の意志を守るために。