『第45話』同時攻撃作戦:その男の名は、劉仁軌
六六一年、十二月。
百済の旧王都、泗沘城。
城下の町には雪が降り積もり、その至る所に唐軍の陣幕が建つ。
元々あった家屋の半数以上は倒壊しており、唐と新羅の侵攻の激しさを物語っている。
百済の民は少なからず残っている。
働ける男は労働と雑用をこなし、若い女は唐兵に命じられるがままの奴隷となっている。
老人と子どもはごくごくわずかで、たいていは殺され、生き残った者のほとんどは冬の寒さと飢えで力尽きた。
かつての百済王室の栄華を飾った城には、唐帝国の旗がはためいている。
城壁の内と外には百済兵の血と臓物が染みこんだままだが、城内の宝飾、調度品などは根こそぎ奪われている。
その多くは唐の本土に献上されたが、一部は現地の将たちが手に入れた。
この泗沘城を任されている唐の劉仁願は、珍しく部下を連れずに、城内の地下に足を踏み入れていた。
地下は暗く、冷えている。
まず地下にあるのは夏に使う食糧庫だが、それとは別に、さらに奥には重罪人を収容する牢獄がある。
ほとんどの牢は空で、捕虜はいない。百済王室が滅んだ今、百済の要人を人質にする必要がないためだ。
劉仁願は自ら灯りをたずさえ、人気のない地下牢前の廊下を進んでいく。
彼は一番奥の牢の前で、足を止めた。
「具合はどうか、仁軌どの」
牢に向かって劉仁願が呼びかけ、灯りを掲げると、牢の奥の暗がりから、一人の男の後ろ姿が現れた。
「久しいな、仁願どの」
牢の男は背を向けたまま、挨拶を返した。
この城では最高権力者である劉仁願に対して、膝を屈さず、正面も向かず、男は堂々と背を向けて応じている。
打ち首に処されてもおかしくない態度であるのに、当の劉仁願は何も言わない。
平服を着た男の手には、使い古した木剣がある。うなじには汗が浮かんでいる。
「そなたが直々に来たということは、重要なことらしい」
「その通りです」
劉仁願はうなずいた。
そこで男は木剣を壁に立てかけ、振り向いた。
男は老いていた。
ひげはないが、皮膚には深い皺があり、頭もそり上げている。
後ろ姿だけなら貧しい僧侶のように見えていただろう。
だが、彼の風貌を目にすれば、僧とはまったくかけ離れた存在だとわかる。
男の顔には多くの傷があった。
右頬とあごには切り傷、ひたいと目元には醜い瘢痕があり、その尋常ならざる生涯がうかがい知れる。
そして、細いまぶたの奥にある瞳は黒い。
感情が読めず、幽鬼のように不気味だ。
男の名は、劉仁軌(りゅう じんき)という。劉仁願と名前がよく似ているが、血縁などではない。
「話せ」
仁軌がうながすと、劉仁願は話し始めた。
「先月、倭国の軍が百済を救援しに来ました。我らは先手を打つために任存城を攻めましたが、黒歯常之と倭軍によって、阻まれました」
仁軌は報告を黙って聞いている。
その間、劉仁願はわずかに固い口調で、話し続ける。
「黒歯常之は言わずもがな、倭軍も侮れません。兵士一人一人の練度は低いですが、それを率いる将は果敢に立ち向かってきます。倭軍は海の果てにある蛮族で、やはり蛮族らしく、しつこい戦い方をやってきます」
この劉仁願の報告を、部下たちが耳にしたら仰天していただろう。
まだ若い将とはいえ、劉仁願は何度も戦を経験した将だ。
そこには唐帝国としての誇りや矜持があり、部下の前では口が裂けても敵軍を褒めたりしない。
軍事大国の将は畏れ敬われるべきもので、ほんの少しの弱みも見せてはいけないのだ。
もしも弱みを知られ、部下や同僚に侮られたら、その先にあるものは失脚という未来しかない。
唐で生まれた劉仁願は、酒を酌み交わした戦友すらも、隙あらば自分の座を蹴落とそうと企んでいる存在だぞ、と教わって育った。
それでも、敵の戦力を包み隠さず述べた。
すなわち仁軌という男が、劉仁願よりもはるか上に位置するという証である。
「このまま手を打たないわけにはいきません。徹底した反撃を行うためにも、あなたの知恵と力をお貸しいただきたい」
最も言いたかったことを、なんとか口に出した。
そして劉仁願はつばを飲みこみ、仁軌の目を見据える。
牢に入っているのは相手側であるのに、畏れを抱いているのは劉仁願の方だ。
さらに言えば、仁軌という男の前では、牢など意味をなさないようにも思えてしまう。
ゆっくりと、仁軌が一歩踏み出した。
牢の格子をへだてて、劉仁軌が目の前に立った。
仁軌の背丈は、劉仁願より頭一つ分高い。
だが、瘦せ細っているわけではない。
服の下から見える肉体は、引き締まった筋肉に覆われ、無数の古傷が見え隠れしている。
自分の倍近い年齢の男とは思えないと、劉仁願は心中でつぶやいた。
「ならば高句麗を攻めよ」
「高句麗を、ですか?」
「新羅をさらに北へ動かし、漢江沿いを拠点にさせよ。あとは、時勢を待て」
断続的な助言に困惑したが、劉仁願は必死に頭を巡らせた。
新羅は今年の六月に武烈王が崩御し、疫病もはやり、国内は疲弊しきっていた。
その後も唐軍の要請に応じて、食糧や物資を輸送する任務のみをおこなっていたが、直接戦えるまで戦力は回復していないはずだ。
実戦で役に立つかわからない新羅軍に、何を期待しているのかと思ったが、考えているだけでは始まらないため、劉仁願は「わかりました」と答えた。
「そうなれば、新羅軍とともに我が軍も北へ増援する必要があります。熊津城の蘇定方どのに出陣を依頼して……」
話している途中で、仁軌が格子のすき間から手を出して、劉仁願の肩を叩いた。
手を出された瞬間は身構えたが、なぜかまったく動けなかった。
「蘇定方どのは大将だ。軽々しく北へ動かすべきではない」
「し、しかし、それでは」
劉仁願が言う前に、仁軌が答えた。
「俺を熊津城に送れ。俺の扱い方は、蘇定方どのがよくわかっているはずだ」
仁軌の口角が上がり、暗がりの中に白い歯が浮かんだ。