『第134話』白村江の決戦:豊璋、逃亡
総崩れとなっていく倭の水軍の中で、唐水軍の猛攻をはね返している部隊があった。
「進めぇっ! あの船に百済軍の大将、豊璋が乗っているぞ!」
唐軍の将、袁孟丁が手勢を率いて、倭水軍の中にいる豊璋を狙った。
唐軍にとってまともな敵であるのは倭軍だけだが、百済王を名乗っていた豊璋を討ち取るのも、大きな手柄となる。
ましてや戦の経験が浅い、豊璋である。
唐軍からすれば、これほど美味しい手柄はない。
「豊璋どのをお守りせよ!」
秦が叫び、周囲の倭兵を鼓舞する。
豊璋の乗っている船を守るのは、秦と狭井、そして三輪と大宅の、合わせて四隊である。
彼らは唐軍と比べて小さい船ながらも、強固に隊列を組み、群がる唐の軍船を押しとどめていた。
豊璋を失えば、倭軍の大義名分がなくなる。
それを理解しているからこそ、倭兵一人一人が持ち場を死守した。
どれほど唐船に沈められようと、倭兵たちは剣を振るい、矢を放ち、武器が無くなれば唐兵に跳びかかって噛みついた。
「ええい、こんな雑魚どもに何を手間取っておるか!」
後方の船で指揮している袁孟丁が、倭兵の抵抗に苦戦している自隊を見て、苛立ちをあらわにした。
唐兵たちも必死に攻めているが、それ以上に倭兵が激しく抵抗している。
「手段を選ぶな! どれだけ死んでも構わん! やつらを一斉に囲んで、船で押しつぶして焼き払え!」
理不尽な命令であったが、袁孟丁に逆らえる唐兵はいない。
唐の軍船が、束になって突撃してくる。
もちろん巨大な軍船どうしがぶつかり合い、倭の船と共に身動きがとれなくなる。
そこに袁孟丁の部下が火矢の雨を降らせる。
倭船はもちろん、唐船にも火が広がる。
運悪く火矢に当たった唐兵は、味方を恨みながら倭兵に斬り殺される。
しかし袁孟丁は満足げに微笑み、「手を緩めるな」と叫んだ。
彼にとって兵は使い捨ての駒に過ぎない。
どれだけ死んでも意味はない。
再び本国に帰国すれば、勝手に補充される存在でしかない。
「豊璋どのの船を守れ! 唐軍を近づけるな!」
「諦めるな! 絶対に押し返せ!」
「唐兵を殺せ! 嚙みついてでも止めるんだ!」
狭井も、他の将たちも、懸命に兵を勇気づけて戦う。
誰一人として無傷な倭人はおらず、片腕を落とされようと、体に火矢が突き刺さろうと、全員が怯むことなく立ち向かう。
苛烈な攻めで鳴らした袁孟丁ですら、鬼気迫る倭軍の抵抗ぶりには、顔をゆがめて歯を震わせた。
部下が豊璋にたどり着けない体たらくへの怒りはもちろん、そこにやっと倭軍に対する恐れが植え付けられた。
「どいつもこいつも、まるで亡者のようだ……!」
そう吐き捨てた袁孟丁の方へ、数本の矢が飛んできた。
「ぬっ!」
袁孟丁はとっさに頭を引っ込め、それから矢を射た者たちを見た。
矢を放ったのは、三輪とその部下たちだ。
さすが物部氏と肩を並べる豪族であり、たとえ窮地でも敵将を仕留めるために抜け目なく行動する。
「あれが敵将だ。難しいが、やつを狙え!」
厳めしい顔つきをした老将、三輪が吼える。
三輪の掛け声とともに、先ほどよりもさらに大勢の倭兵が、袁孟丁の船に矢を放つ。
「ちぃいいっ! 何をしておる! やつらの船を燃やせ!」
袁孟丁は盾を構えつつ、命令を下す。
唐軍からも火矢が飛んできて、三輪の兵たちも一気に矢で殺されていく。
それでも倭兵は負けじと矢をつがえ、相討ちを覚悟して、矢を撃ち返す。
壮絶な矢の応酬と白兵戦が繰り広げられる。
「もう保たないか……!」
秦は唇を噛みしめてから、自分の船を豊璋の船に寄せた。
ここにいる倭兵は誰一人として諦めず、戦ってくれている。
しかし袁孟丁の船団の兵力、装備は充実しており、尽きる気配がない。
このままでは徐々に押しつぶされてしまうことは必至であり、豊璋の身が危うくなる。
「豊璋どの! ここは態勢を立て直します! 生き残っている船をまとめて、まずは廬原どのの元へ……」
秦は豊璋のいる船に飛び乗り、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しつつ、船室の扉を開けた。
だが、そこに豊璋はいなかった。
船内にいたのは数人の百済兵と、豊璋の鎧を着た、側仕えの兵士のみだ。
「……おい」
秦は低い声で、豊璋の鎧を着ている百済兵に詰め寄った。
「豊璋どのはどうした? なぜあの方の鎧を、おぬしが着ている?」
「わ、私はただ、陛下に命じられただけで……この鎧を着て、ここで唐兵を待ち構えるようにと、言いつけられたのです……」
「豊璋どのはどこだ!」
秦が怒鳴ると、百済兵は小さく悲鳴を上げて、腰を抜かした。
すぐに秦は船室から飛び出し、船の周辺を見渡した。
どこもかしこも、倭兵と唐兵が戦っている。
船どうしが衝突して、兵たちが船上で激しく戦っている。
空には矢が飛び交い、船にも、海にも、降り注いでいる。
そのような混沌とした海戦が行われている中、一隻の小舟が戦場から離れていた。
誰も気にせず、注意を払わず、その小舟はふらふらと逃げていく。
小舟に乗っている人間は、百済兵の鎧を着ている。
しかし秦は、百済兵に扮したその男の顔を知っている。
「豊璋、どの……まさか、そんな……」
秦はがく然とし、剣を取り落とした。
逃亡兵に扮して、豊璋は逃げたのだ。
危険から逃れるための一時的な離脱ではない。
王の鎧すらも部下に押しつけて、一人だけ生き延びようとしたのだ。
わなわなと唇を震わせ、逃げゆく豊璋の背を睨みつけた。
倭兵も、百済兵も、一所懸命に戦っている。
持ち場を死守して、豊璋を敵の手から守り切るのだと、命を捨てる覚悟で剣を振るっている。
だが、豊璋は逃げた。
彼はあらゆる物事から逃げて、己の命だけを守り切った。
自分を導いてくれた優秀な大将を斬り捨てた。
妻となる姫を見捨てて城から離れた。
己の身を守ってくれる同盟者も、家臣も、捨て置いて逃げた。
抑えようのない憤怒が、秦の全身から噴き出す。
倭国は最後まで豊璋を見捨てなかった。
どれだけ頼りなく、愚かな王であっても、幼少の頃から大切に育てた王子だったからだ。
彼が真の百済王となって君臨する。
その目標を目指して、唐と新羅に挑み続けたのだ。
それでも、豊璋は逃げてしまった。
彼のことを最後まで見捨てなかった者たちすらも、彼が先に見捨てて逃げたのだ。
「うあぁあああああーーーっ!」
秦が叫んだ。
獣のように、やり場のない激怒を、声に変えて泣き吼えた。
その場にいた百済兵は青ざめ、腰を抜かした。
秦は剣を拾い、振り返る。
眼前には戦場が広がっている。
海の上には多くの死体が浮かび、倭兵と唐兵が入り混じって争っている。
「かくなる上は……!」
そうつぶやいた後、秦は自分の船に戻り、余っていた剣を二本背負ってから、鎧を脱いだ。
「秦さま、もしや」
「皆は逃げよ。私は、責任を取る」
秦はそれだけを言い残し、手近にあった味方の船に飛び乗った。