『第138話』戦の結末:豹変

「どうした。今度はなんだ」

 黒歯常之は気だるげに応えた。
 戦況は最悪なのだ。
 今さら悪い知らせが飛びこんできても、何も驚くことはない。

 側近の報せを聞くまでは、そう思っていた。

「賊が……いや、民が、唐軍に……」

「なに? どういうことだ? はっきり話せ」

 煮え切らない側近に、黒歯常之はしっかりとした報告を求めた。
 側近はここで一度息を整えて、口を開いた。

「付近に住んでいた民や、城の周辺で保護していた流民が裏切り、次々と唐軍のもとに走りました! 一部は賊となり、唐軍の味方をして、我が軍に攻撃を仕掛けております!

 この報告に、黒歯常之は絶句した。
 これまで百済軍には様々な災難が起こったが、今回ばかりは信じがたい出来事だった。

「どけ!」

 黒歯常之は側近を押し退けて、陣幕を飛び出した。
 城壁に上れば、そこには異様な光景が広がっていた。

 周留城の周りには兵舎、陣幕があり、そして保護された流民たちが寝泊まりする野営などもある。

 その至る所で、暴動が起きていた。

 ある民は盗んだ食糧をかついで、百済兵から逃げようとしている。
 ある民は束になって百済兵に襲いかかり、鎧兜を剥ぎとり、代わりに自分たちが武装している。
 ある民は兵舎や陣幕に火を放った後、一目散に唐軍のいるふもとへと逃げていく。

 はじめは民に化けた唐兵の仕業だと思った。
 もちろんすべてが百済の民ではなく、扇動する唐兵も混じっているのだろう。

 だが、きっかけはどうであれ、大半の民が自分の意志で暴動を起こしているのは事実だ。

 黒歯常之は、それが信じられなかった。
 まさか自分たちが守ってきた民が、こうもあっさり唐軍の影におびえて寝返るとは、夢にも思わなかった。

 中には百済兵に協力して、暴動を止めようとする側の民もいるが、それは圧倒的に少数派だった。

「黒歯常之どの! これは一体どういうことか!」

 そこに執得が取り巻きを率いて駆けつけてきた。

「我らが保護してやった民たちが、なんとこちらに反旗をひるがえしてきた! 早く収拾をつけなければ大変なことになるぞ!」

 声を荒げる執得に、黒歯常之は一瞬だけ目線を移したが、すぐに城外の方へ目線を戻す。
 お前などに構っている暇はない、という態度だ。

「な、貴様、その態度はなんだ!」

 こちらを歯牙にもかけない黒歯常之の態度に、執得の自尊心が傷ついたようだ。
 だが、彼が真っ向から黒歯常之に挑めるはずもなく、早々に自分の切り札をちらつかせる。

「このままでは倭の蔣尋姫の命も危うくなるぞ! 貴殿がこの暴動を収め、この城を守り切らねば……!」

 その直後、執得の首が宙を舞った。
 黒歯常之の中で何かが切れた瞬間、執得を斬首したのだ。

 つばを飛ばしてまくしたてていた執得の首が、城壁の下へと落ちていく。

 そのまま首は、暴徒となった民と、百済兵のもみ合いの中へと転がっていった。
 暴動の渦中にいる彼らに、執得の首は気づかれることすらなく、知らず知らずのうちに蹴られ、踏みつぶされ、どこかへ消えていった。

 黒歯常之は剣の血を払い、今度は切っ先を、執得の取り巻きに向ける。
 彼の瞳は暗く、感情はなかった。

「どちらか選べ。今すぐ裏切り者どもを殺しに出撃するか、それとも俺に歯向かうか」

 残された取り巻きに、黒歯常之に歯向かえる人間はいなかった。

「日暮れまでに、裏切った暴徒どもを全員殺せ。唐兵がまぎれていたら、捕まえて俺のもとへ連れてこい。逃がせば、どうなるかわかっているな」

「は、ははぁっ!」

 執得一派に属していた百済の諸将は、弾かれたように動きだした。
 彼らは大慌てで己の鎧兜を身に着けて、兵を率いて出撃した。

 黒歯常之は、その様子を城壁の上からながめていた。
 周留城に残っていた大部分の百済兵が出撃したことで、暴動の形勢は逆転した。

 数が多いとはいえ、所詮は戦の素人ばかりである。
 軍勢が本腰を入れて戦えば、あっという間に鎮圧できるのだ。

「これが、俺の守りたかったものか? こんなことのために、俺は」

 眼下では、同じ百済人が殺し合っている。
 民も、兵も、入り乱れて殺し合っている。

 自分は何のために、命を賭けたのだろう。

「おい、誰かいるか」

 黒歯常之が呼ぶと、側近の一人がそばに現れた。

「あの倭の姫、さっさと追い出してこい。これから行う交渉の邪魔になる……運が良ければ、倭国に落ち延びるだろう」

「は、ははっ……あの、交渉相手とは?」

 黒歯常之は、側近に顔を向けた。
 側近は主の顔を見て、何かを察していた。

 吹っ切れてしまった人間の、乾いた笑顔だった。

「劉仁軌だ。やつに、返事の書状を送る」

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