第22話『兄君』
「それも、ありますが……あの方には兄君がいたのです。すでに亡くなられていますが」
「ふむ。氷老殿も、君も、ずいぶんと複雑な生い立ちだな」
博麻がそう言うと、弓削はうなずき、話を続けた。
「……氷老様には、三つ年上の兄君がおられました。兄弟仲はとても良く、幼い頃の氷老様は兄君を慕っていたとのことです」
「その兄君が、今は故人なのか。どうして亡くなられた?」
「それについて、氷老様ご本人から詳しく話してくれたことは一度もありません。これから話すことは、僕が氷氏の下男となってから、別の下男から耳にした話です」
弓削はそう前置きしてから、話し始めた。
「氷老様は十歳の頃に川で溺れかけ、その時に兄君が救ってくれたとのことです。雨で増水した川に誤って落ちた氷老様を、兄君は川へ飛びこみ、氷老様を岸まで戻したところで、力尽きて流されてしまったと……」
「慕っていた兄が自分を救ってくれて、亡くなってしまったのか。痛ましいことだ」
博麻は眉間にしわを寄せ、首を振った。
「その兄が亡くなったことで、氷老殿は自ずと跡取りになるはずだ。しかし、彼は拒んだ」
「はい。氷老様は自らの意思で、氷氏の跡取りとなることを辞退したのです……あの方は以前、兄上と違って俺は不出来な息子だ。両親も俺が当主となることを許すはずがないと……そうこぼしておりました。そして唐に渡ったのも君のせいではなく、俺が家族と距離を取りたいためだと」
弓削から聞いた話で、博麻は大体の事情はわかった。
氷老は幼い頃から、利発な兄の背中に憧れていたのだろう。
親も兄の優秀さに目をかけ、次期当主として大きな期待を注いでいた。
だが、その兄が、溺れかけた氷老を救うために犠牲となった。
両親としても悲劇であり、助けられた氷老も肩身が狭い。
その自責の念から、氷老は跡取りとなる道を自ら捨て、唐に留学する道を選んだ。
弓削という腹違いの弟の立場も危うくなったため、氷老が倭国から離れる決心は固かったことだろう。
「なるほど、君と、氷老殿のご家族の事情はわかった。だが、俺が特に嫌われる意味がいまだわからないままだ」
博麻はそう言った直後に、あっと小さく声を上げた。
「いや、そういうことか? しかし……」
「何か、心当たりでも?」
弓削が尋ねる。
「実は、俺は幼い頃に、川で溺れかけた薩夜麻を救ったことがある。その日がきっかけとなり、今でもあいつと長い付き合いになっている」
「そ、そうなんですか。氷老様が兄君を亡くしてしまわれた事件に、よく似ています」
「そうだ。今の話は富杼も知っていることだ。若や富杼から何気なくその話を聞いたのなら、氷老殿が俺とことさらに距離を取るのも、なんとなくわかる気がする」
氷老からしてみれば、川で溺れかけた薩夜麻を救い、自分も無事なまま生き残っている博麻は、うらやましく、目障りな存在なのだろう。
少し腑に落ちない点もあるが、博麻はそう結論付けた。
むしろそれ以外に、氷老と博麻に特別な共通点が見つからないからだ。
「弓削、今日は色々とありがとうな。これからはあまり氷老殿を刺激せず、上手く距離を取って過ごそうと思う。君にも無闇に話しかけないから、これからも安心してくれ」
博麻は弓削に礼を言ってから、その場を去った。
弓削は博麻に一礼してから、ため息をついた。
氷老のことは大いに慕っている。
氷氏に下男として売られた混血児の自分を、本当の弟のように大事に扱ってくれたのは、氷氏の中では氷老だけだ。
唐人の母と、倭人の父の間に生まれ、天涯孤独となって倭国に流れ着いた混血児。
そんな弓削にとって、唯一の家族と言えるのは氷老だけだ。
しかしながら、弓削は氷老の言動に不可解な点を感じていた。
いつもの氷老ならば、博麻の境遇などを聞いても、己の心を乱すことはないはずだ。
そりの合わない人間が、偶然にも自分の暗い過去を想起させたとしても、それを理由に一方的に嫌うことはないはずだ。
だが事実、氷老は博麻のことを大いに嫌い、まさに差別的と言えるような扱いをしている。
長年連れ添っていた弓削ですら、最近の氷老は初めて見る氷老だった。
以上が、博麻たちが長安に来て、一年目の話である。
博麻はこの話を思い出しながら、黒常の屋敷に戻り、倭人たちの別館に戻った。
氷老と、話をつけるためだ。