第29話『克服』
一方、老猿と氷老は大屋敷の中で、宴会に参加していた。
老猿は妓女として唐の高官たちの相手をしており、氷老は黒常を始めとした皇后派のお付きとして、大広間のすみで膳を置かれて飲食している。
氷老も黒常の部下として宴会に参加できている身分だが、やはり倭人であるというくくりから抜け出すことはできていない。
黒常たちに忠実に従い、裏ではせっせと武器集めに貢献しているというのに、こうして末席に押しやられている。
だが、今は末席でも不満はない。
すでに自分は黒常たちの犬ではなく、博麻や老猿の同志なのだ。
むしろ目立たず動くためには、これで好都合だ。
「ほほう、金烏よ。今日も美しいのう」
「ありがとうございます。あなた様にお褒めの言葉を戴き、私は天にも昇りそうな心地でございます」
「嬉しいことを言ってくれるではないか。ほれほれ、おぬしもたんと呑むが良い」
「ええ。では頂戴いたします」
かなり肥えた体つきをしている中年の高官に、老猿は酒を注ぎ、彼女も酒を勧められて吞んでいる。
肥えた高官は老猿の肩を抱き寄せ、顔を近づけ、露骨に彼女に対して欲情している様子だった。
酒の勢いではなく、元々からそういうやり方をする男なのだろう。
しかし氷老が驚いたのは、老猿が顔色一つ変えず、楽しげに高官とともに酒を呑んでいることだ。
それどころか高官の情欲をあおるために、積極的に体をすり寄せ、時にはいたずらに高官の頬や首筋に指をなぞらせている。
その手練手管を遠目で見ていた氷老は、感嘆の想いを抱くと同時に、女という生き物の底知れなさを恐れずにはいられなかった。
「良いではないか、おぬしも好きであろう」
「うふふ、まあまあ、そんないたずらを……?」
このように老猿は存分に高官を篭絡しているが、さらに驚くことに、そんな最中でも氷老に対して時おり視線を送ってくる。
氷老はその視線を受け取りつつ、瞬きの回数を数えて、その合図を読み取った。
左右どちらのまぶたで、何回瞬きをしたか。
それが老猿と氷老が示し合わせた合図であり、その回数一つ一つで意味が変わる。
左のまぶたで二回、瞬きをした。
先に大広間から退出してほしい、という合図だ。
すぐに氷老は酒の入った盃を、膳の一つに移し替えて、さも酒を飲み干したような状態に見せかけた。
「う、うぅ……気分が……」
氷老が口を押えて、悪酔いしたような演技をする。
その様子を見て、隣にいた高官とそのお付きの妓女が嫌な顔をした。
「おい、倭人。吐くならさっさと外に出て行け。盛り上がっているところで吐いたら、わしが直々に罰を与えてやるからな」
その高官は、具合の悪そうな氷老に向かって、手で追い払う仕草をした。
氷老はその傲慢な態度に胸の奥で舌打ちしつつも、狙い通りに外に出ろと言われ、しめしめとほくそ笑んだ。
「す、すみません。席から離れさせてもらいます」
「ふん、どうせなら、もう帰ってしまえば良いものを」
高官の悪態に対し、氷老は何度も頭を下げながら、ふらふらとした足どりで大広間から抜け出した。
その様子を老猿は横目で確認すると、以前と同じように高官を色香で篭絡した。
「あぁ、いけない……どうやら、酔いが回ってしまったようです」
「ほ、ほほう。それは大変なことだ」
「もう駄目です……どうか二人で静かにできる場所で……」
このように誘惑された高官は鼻の穴をふくらませて、まんまと大広間から連れ出された。
氷老は廊下の端に身を隠し、老猿と高官が体を寄り添わせながら離れへと向かっていく様子を確認した。
その途中、老猿は一瞬だけ振り向き、流し目を送った。
「しばらく待て、か」
氷老は老猿の合図を理解し、そのまま廊下の物陰に隠れた。
闇の中で息をひそめながら、氷老は胸に手を当て、己の高ぶる気持ちを抑えつけた。
これまで氷老は豪族の次男として裕福な生活を送り、勉学でも優秀な成績を収め、唐への留学も順調に果たしてきた。
親との関係や唐人との軋轢による苦悩などはあっても、このような生死と隣り合わせの行動をしたことはほとんどない。
ましてや誰かとともに秘密の作戦を打ち立てて、他人にそれを気づかれずに行動するなど、保守的な優等生として人生を歩んできた氷老にとって、まさに非日常の緊張感である。
こんなにも必死になって命がけで行動したことなど、たった一度だけ。
川で溺れかけていた兄を助けようと己の身を呈した、あの日だけだ。
「今度は失敗するものか……今度こそは」
氷老は己の夢をもう一度拾いなおす決意を固めた。
そのためにはまず、倭国を守るしかない。
唐帝国の野望をくじくという博麻の目標に協力することで、それが叶う。
心から協力する意思があるからこそ、危険と隣り合わせのこの状況に、並々ならぬ緊張感を抱いていた。
「お待たせ。ひどい顔色をしているけど、大丈夫?」
高官を眠らせて戻ってきた老猿が、隠れている氷老を見つけた。
彼女は氷老の様子がおかしいことに気づいたが、氷老は首を振った。
「なんでもない」
「そう? なら良いのだけれど」
老猿は深く追及せず、親指で後ろを指差した。
「行くわよ。二階からはあなたの案内がないと」
「……ああ」
氷老は壁に手を突き、立ち上がる。
そこで老猿は、氷老に寄り添ってきた。
「なんのつもりだ?」
「誰かに見つかっても、男女で乳繰り合っていると誤魔化すためよ。それに、調子が悪そうだから支えてあげるわ」
「う、うむ。すまない」
氷老はうなずき、老猿をともなって歩きだす。
二階へ行く階段の途中で、氷老が口を開いた。
「老猿」
「なに?」
「お前は、恐くないのか?」
「唐帝国に楯突くこと、かしら?」
「それもあるが……下手を打てば死ぬかもしれない状況で、お前のような若い女がこうも堂々と動けることが、俺は不思議でたまらない」
政治、学問、どれも男社会で生きてきた氷老にとって、たくましくしたたかに行動する老猿の度胸は、尋常ではないものに思えるのだろう。
しかし老猿は首を振った。
「大したことじゃないわ。私は、本当に恐いことを知っているだけ」
「本当に恐いこと? なんだそれは」
「今の場合で言えば、唐帝国が倭国と新羅を滅ぼすことよ。自分が捕まって死ぬことよりも、ここで動かず、戦が起こるのを見過ごす方が何倍も恐いことでしょう?」
「それは、そうだが。では、誰かに忠義を示すとか、そういうものは」
「一切ないわ。私は国に対して忠誠心なんかない。ただ、生まれ故郷と、そこに生きる人々のことは愛している……それらが踏みにじられそうだから、私のやり方で、全力で抵抗するだけなのよ」
老猿の言葉に、氷老は言葉も出なかった。
彼女の考え方はどれも本質的で、それどころか大人が弄する建前のようなものがない、純粋すぎる少年少女のごとき思想だ。
だが、それこそ正しいあり方でもあるのだと、氷老は改めて思った。
思えば、ある一定の年齢と知恵に達すれば、誰もが建前や条件で取り繕い、己の主義主張を通そうとする。
氷老のことを冷遇した唐人の役人たちも、自分の親戚や知り合いが倭国との戦で亡くなったから、身近にいた氷老を攻撃することにしたのだ。
ただ気に食わないから、身近にいた氷老を冷遇したのだ。
その際も、あれこれと後から理由や建前をつけて、もっともらしい言葉で氷老を追い詰めた。
そして氷老自身も、自分が冷遇されたことによる怒りや不満を、博麻や薩夜麻にぶつけてしまっていた。
彼らが氷老のことを直接傷つけていないというのに、理不尽な態度を正当化することを繰り返していた。
それを思えば、博麻や老猿がやってきたことは、うらやましくなるほど純粋で公正だ。
「そう、だな。それが今を恐れぬ理由か」
氷老は鼻から大きく息を吐き、それからグッと背筋を伸ばした。
徐々に彼の顔に赤みが差し、血の気の失せた表情ではなくなっていく。
「もう大丈夫だ、老猿」
氷老は老猿の肩に手を置き、寄り添ってくれた彼女をそっと離す。
「文書を探すことに集中しよう。二人がかりで、一気に片付けるぞ」
老猿は少し驚いたが、氷老の顔を見て、納得してうなずいた。
「そうね。なら、さっさと探しましょう」
こうして二人は、二階の部屋から順番に探していくことにした。