『第113話』迫りし決戦の時:別れの出港
六六三年、七月下旬。弁韓の港。
急いで造船作業を進めた倭軍は、一ヶ月で軍船を揃えた。
半数は伽耶人からもらった船だが、周留城が攻められる前に駆けつけなければならないことを考えると、これでも時間をかけたほうだと言える。
「食糧と武器を積んだ隊は、ただちに出港しろ! 狭い湾で立ち往生するなよ!」
早朝だと言うのに、港の一角では上毛野が兵に指示を送っていた。
これは彼の考えではなく、総大将である安曇の考えである。
この港は狭く、また港から沖に出ても小さな島が点々としている。
そのため全軍で一度に出港するよりも、準備のできた隊から順番に出港して、その後に合流して周留城を目指せと命じられている。
先に帰国する負傷兵や避難民たちも、荷積みの作業を手伝い、大急ぎで出陣の支度を進めている。
薄ぼらけの朝の空気を胸いっぱいに呼吸しながら、筑紫の兵たちも荷積みを進めていたが、博麻と薩夜麻の乗る船はすでに準備が終わっていた。
博麻は船首に立っていた。
腕を組み、早朝の薄暗い水平線をながめている。
「兄貴、ラジンとユナさんが来ています」
後ろから薩夜麻に話しかけられたが、博麻は振り向かなかった。
「別れの挨拶は先ほど済ませた」
淡々とした口調で答えた博麻を見て、薩夜麻はため息をついた。
博麻が別れを惜しんでいるのはわかっている。
その証拠に、組んだ腕からかいま見える指先に力が入っている。
「忘れ物を渡しに来たそうです。意地を張らず、会ってやってください」
「……忘れ物?」
「そうです。早く、ほら」
珍しく薩夜麻は強引で、博麻の服のそでをつまんで引っ張る。
今日は顔を合わせるつもりはなかったが、忘れ物を届けてくれたというなら、さすがに面と向かって礼を言わなければならない。
そう思って博麻が船尾に戻ると、ラジンとユナが海辺で待っていた。
ラジンはすでに鎧を着ていない。
伽耶人からもらった着物を着ており、身も清め、少し伸びた髪も結わずに下ろしている。
頬の刺青さえなければ、多くの男から言い寄られるほど可憐だ。
しかし彼女は剣を取り、戦を選んだ。
自ら頬を焼き、刺青を施し、女を捨てて戦士となって戦い続けた。
博麻は少し胸が痛んだ。
こうして本来の姿に戻っても、彼女の頬には焼けた刺青が残る。
また体には多くの傷跡が増えた。
どれも彼女が望んだことだが、女として生きる道を断ってしまったという罪悪感が博麻にはあった。
「どうしたの? まさか僕に見惚れていたのかな」
ラジンがいたずらっ子のように笑ったのを見て、博麻も笑みをこぼしながら首を振った。
「そんな馬鹿なことあるか。少し驚いただけだ」
それから博麻は一度船を降りて、海水をかき分け、波打ち際に立っているラジンのほうに戻った。
「忘れ物があると聞いたが」
「ああ、そうそう……これだよ」
ラジンが差し出したのは、自分の剣だった。
「お前、これは」
「おじさんなら、扱えるよね」
「しかしこの剣は、お前の父の形見だろう」
「持っていって。僕が離れても、僕とおじさんの戦いはまだ終わっていない。せめてこの剣だけでも、一緒に連れて行ってあげて」
ラジンの目を見て、博麻は観念した。
こうと決めた彼女を止めることはできない。
たとえここで剣を突き返しても、彼女は諦めず追いすがってくるだろう。
「わかった」
博麻は剣を受け取ったが、同時に彼女の手も握った。
「だが、借りるだけだ。俺は必ず返しに戻ってくる。それまで少しだけ待っていてくれ」
「うん、待ってるよ。僕はずっと待ってる。おじさんは帰ってくると信じているから」
力強くうなずいたラジンであったが、彼女の瞳はうるんでいた。
博麻はそんな彼女の手を引きよせ、思いきり抱きしめた。
波打ち際で二人は抱き合い、互いに体を震わせる。
どちらも泣き顔を見られないために、顔を相手の肩に押し当てていた。
「行ってらっしゃい」
「……ああ」
耳元でささやかれた涙声に、博麻は小さな声で応じた。
彼の声もわずかに震えていた。
それから二人は体を離した。
博麻は背を向け、浅瀬を歩いて進んでから、船に飛び乗った。
出港の時となった。海辺から船が離れていく。
一度だけ、服のそでで顔をぬぐった。
「行ってらっしゃい! おじさん!」
振り返ると、海辺でラジンとユナが手を振っている。
彼女も涙を浮かべていたが、明るい笑顔を見せて、元気に腕を振る。
「ああ! 行ってくる!」
博麻も負けじと大きく手を振った。
あの子の前では、最後まで頼れる男でいなければならない。
こうして倭の水軍が弁韓から出港した。
これから朝鮮半島の西側へ大きく回りこみ、百済領の西、周留城へ急行しなければならない。
周留城には崩壊寸前の百済軍と豊璋が立て籠もっている。
その周辺には百済滅亡をもくろむ唐・新羅連合軍が待ち構えている。
すでに両軍も百済の現状を知り、残る倭軍を討つための準備を進めているだろう。
それでも倭軍は戦うと決めた。
百済を助けるためだけではなく、自身の未来のために。
倭の水軍は総力をもって、白江の河口部、白村江を目指す。