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現代絵画の終末と再生 1

L 工房通信 N0.1

 
    
  ー 目次 ー
 <像>の手帖
 <流転の淵>について
 「引き裂かれた湖」のこと
  虚構のエレメントー三人展への自注ー
 坩堝の底のアマルガムー作品展への自注ー
 ー後記ー

         

         <像>の手帖


           - はじめに -
<像>の手帳は制作ノートの余白や端々に思いつくままに書かれたものから抜き出されたものがほとんどである。ここでは1984年から1989年までを載せたが一部は省略されている。また1984年は<流転の淵>という抽象絵画の世界の制作の初期に当たる。当時は、絵画制作をいつまで続けることができるのか分からないまま必死の思いで何かを乗り切ろうとしていた時でもあった。これらをいま振り返って読んでみると、意味が判然としないものや論理上の矛盾や思考の錯誤をそこらじゅうに見いだす事ができる。ただこれらの断片にひとつの真実があるとすれば、なによりもこれらは私の制作と思考の創造過程から押し出すように生まれた言葉であり、その瞬間には、私自身は確信をもって信じていたということである。また、当初と最近とを比較してみると、表現の方法意識の変遷からか、思考の対象と領域が相当変化しているのが分かる。ところで<流転の淵>は現在も続けられており、いつ終えるどころか永遠に続くのではないかしらんと、近頃思い始めている。そうであれば、これからも断片は書き連ねられるに違いない。

    -<像>の手帖 -  1984-1988

 <淵>は未来からの<構造>によって決定づけられている。 

 ひとつの<淵>は他の<淵>と連続していて境界線を明確にする
とが出来ない。

 <ある<淵>の内部にあるひとつの作品は視点を変えれば他の<淵 > の領域内にある場合があり得る。そのような領域においては<淵>の存在自体が疑われている。 

  ひとつの<淵>を自在に泳ぎ切ること。そして<淵>の淵にまで 作品が達した時がその<淵>の限界であり、他の<淵>もしくは他 の<海>の<>への入り口である。

 ひとつの<淵>という海は、<淵>の淵にまで至るときその<淵 >の限界が明確になり<淵>の極北に至るとき、その<淵>の理念 に つきあたるのであろうか? 
 
 <淵>の極北でさえそれは明確な一地点ではなく、複数の地点で あ る。しかしながら共通の<未知のX>によって決定づけられている 何かであろう。  

 <淵>の極北は有限数の点であろうか。あるいは無限数の点だろ う か? 

 <極北>は<美>の函数として抽出できるのであろうか?

 さまざまな<コンセプト>(<消去><壁><コンポジション> 他)を移動しながら、それらの<差異>を見極めること。<差異> によってもたらされるもうひとつの<現実>に注目すること。

 <抽象>という領域が問われるような境界あるいは<絵画>自体の存在が疑われるような地平を含みながら、なおかつ<抽象絵画> であり続けるための条件とは?

 一点の作品によっては決して埋めることが出来ない<ありうべき
X>との距離(=<偏差>)をさまざまな複数の方法意識による<差異>の連鎖によって包囲する。この方法による<抽象>領域の作品群を<流転の淵>と名付けておく。

 抽象象形の世界に於いて、複数のコンセプトによる<差異>に焦点をしぼり、ひとつの<様式>へと退化した<概念>を超えるべくそこから展望する全体性への架橋の譬えとして<流転の淵>という名辞を与えておく。

 調和、幾何、構成、自在、等の要素は全絵画空間を通底する本質
としてあるだけであり、主体の理念とすることはできない。また画体(=文体)の理念としも定立不可能である。

 最大の<裂け目>にこそ最大のモチーフが有る。

 そしてその<裂け目>を極限にまで圧縮すること。

 わたしの作品がひとつの共通性(=同一性)をもつとするならば、それは<手法>に由来するものでなく、どの作品も同じ<根拠>に原因するものでありたい。
 
<変容>と<抽出>の<融合>。

 彼のアトリエに掛けられた絵達、それは彼の現在の<美>世界の一水準での写像でもある。刻一刻と変貌しながら接近しょうとする目的地は、アトリエの一枚の作品ではなくてアトリエの全作品によって方位が指示される。また彼の個展とはアトリエという密室の扉を広く開くことであるが、個展の終わりとは扉を閉じることではなく密室自体の解体である。なぜなら作品が衆目に晒された以上、秘めることは無意味となるからだ。彼は次ぎの個展へむけて密室を再創造するためにまたゼロから出発する。個展では到達出来なかった<美>をこんどこそは手中にしようと思いを新たにして歩き始める のだ。

 作品Aが現実の<抽出>に属するものである時、手法もまたその行為に従属させなければならない。
 
 <差異>を<消去>することによる同一化、個性化ではなく、<差異>の過程的な把握の仕方による同一化、個性化を行う。<差異>はそれぞれが独立した明瞭な姿をあらわし、現出するその姿によって同一の絆をあらわし、結ばれているという<事態>を構築する。
 
 <差異>を<コンセプト>と<コンセプト>との間に線引きすることではなく(それはすでに差異ではなくなった)、<概念>を< 変容>していく途上でたちあらわれてくる新たなる<差異>を注視すべきである。

 混沌の<抽出>の仕方と概念の<変容>の仕方に個性が発見され る。

 すべての<作品>に白い光を与えることで統一性を確保する。
 
 <抽出>と<変容>、未完の作品におけるいまだ制作の途上にあつて、作品の内部が<抽出>されようとしているのか、<変容>をし始めているのか‥。そこでわたしは逆に問いかけを受け取る。<君>のまなざしの鏡面に<抽出>と<変容>の二つの<力>を<君>は絶えず意識しているかと。

 <抽出>の作品群と<変容>の作品群が絶対必要だ。<融合>状態の作品達はこの両者に包囲されて存在しなければならない。包囲されない<融合>は純粋ではなく単に奇形に過ぎない。

 <抽出>も<変容>も方法の根拠(=イメージの立脚点)を<現実>と<理念>に持っているが、<融合>は両者にはさまれた<中性>状態を存在理由としている。
 
 <抽出>、<変容>はその方法によって<まなざし>(=美の視線)にいたるが、<融合>は<まなざし>から出発する。
 
 <融合>は<抽出>と<変容>に包囲されているが、その拡大と融合力によって<抽出>、<変容>をひとつの<海>に<融合>し<溶解>させていく‥。
 
 誰も包囲することがない。また誰からも包囲されることもない。
 
 抽象表現の完全な系列化は先験的に不可能である。現実の現在空
間が一切の系列化と包括化を拒絶するからだ。
 
 <表現>の<理念>を主観的な契機に置かずに、客観的な<立場
>に置くこと。

 <理念>は消去され<構造>へと転換される。

 ひとつのコンセプトにも多様な展開が存在することを認めること。
 
 ひとつの形態とひとつの概念は一対一の対応関係をとるとは限らな
いこと。 

 <遅延>という方法。

 <構造>をひとつの領域としてその域内で持続すること。

 <親和>は色彩の<調和>をひとつの根拠としている。

 <流転の淵>における複数の<概念>群をいくつかの<型>に類 型化する。

 系列もまた解除されていく。
 
 分割分類への希求は不可能への抵抗でもある。と同時になによりも<差異>を持続していく時の羅針盤を求めているにすぎない。 
 
 <美>の誘惑、見ることの誘惑、見てしまえば見続けようとする力。あらかじめ用心して注意して見ようとするのではない。不意に油断した心に突然現れ、瞬く間に魅了し、そこから離れなくしてしまうひとつの窓の中の世界のとある経験。 
 
 しかし私の表現意識は、いつも空白なイメージから手ぶらで出発する。見ることの経験は結局私に何事ももたらさなかったのだろうか。

    ー来るべき<絵画>への夢想ー 1989.10


 <それ>は見ることが出来ない<空白>のイメージである。
 
 <それ>はなにか単一の<実体>でありながら表現された<絵画>としては無数の作品としてあらわれるなにかだ。
 
 <それ>はかつてこの地球で描かれたすべての絵画に関係していながらそれら全部を拒絶する力に満ちている。 

 ハルカ彼方、宇宙ノ果テヨリ、<それ>は到来したようにみえながら、この地上にも発生の存在理由を所有しているように必然として感じられる。

 <それ>は来るべき<絵画>のなかでのみ十全に光として現れる。
 
 そのひとつひとつの<絵画>はそれ以外の表現では絶対にありえないひとつの典型として見えるだろう。

 結局は<それ>の存在は私達人間の精神の本質に由来しているに違いない。

 <それ>は<美>の<理想>のたとえではない。むしろ<異端>に属する何かであろう。 

    <像>の手帖 1982-1984(制作ノートより)
注)これはL工房通信では未掲載である。今回ここに追加しました。

 ><シリ-ズはブラックホールとしての<絵画>の周辺に存在する<特異点>を巡る表現である。
(注)><シリーズは1982年前後に制作された平面作品のシリーズ
 わたしたちのいる現在空間としてのこの世界と、この世界にいるわたしたちの所有物を、それら以外のものによって包囲すること。
 
 ある幻想-わたしたちが所有しているすべての物がこの世界以外の領域(もうひとつの現実=表現世界)に移し替えられる。

 ひとつの妄想-その洞窟(画廊=アトリエ)に侵入して来た<君>自身が包囲される。

 ><シリ-ズにおいて作品イメージの分類及び系統分割が整合的でないのは、><作品中の物のマチエールが呪物性と物質性との狭間で、とめどもなくただようからだ。別の視点からみればこの生活空間にあふれる物たちは、本来の用途を剥奪し解体して単体として取り出してみれば、感性的にはとうてい分割分類不可能なほどの多様さと変幻さに満ちた破片と化しているからだろう。
 
 ここでわたしの方法への根底的な疑念が生じる。そもそも分割や分類が無意識にもなにか<理念>のようなものを想定していないかということだ。自己が表現の感性的な現実の真っ只中に自在にあるのではなく、なにか高い処から、自らは下降せずに見下ろすという姿勢のまま表現するという模造行為ではないのか?どこで間違ってしまったのだろう。あらゆる<理念>を拒絶するはずが‥。

 < >表現と><表現の可能性を探索、持続することによって<私>を絶えず揺さぶり続けること。 
 
 <私>は分裂したままだ。私は <私>にいつ出会えるのだろうか?

 ひとつの選択。他の全ての領域を《 》に入れること。

 わたしは絶えず<原形的なもの>の圧迫に苦しんでいる。

 個展会場を、なによりも、見る者を包囲する場所とかんがえること。

 そこに展示される作品群をひとつの展望としてイメイジすること。

 理念としての原形はある。
 
 分割されること

 ある領域と、あるスタイルの作品、その形態と、その手法では、以前には誰も試みていなかったかのように制作すること。

    <流転の淵>について

<流転の淵<がスタートする1984年以前の数年間ほどわたしの表現世界が揺れ動いた時期は無かった。1981年迄、風景をモチーフにした抽象的な絵画を描いていたし、1982年には<反絵画>(=非絵画)とでもいうべき平面作品の連作を発表し、1983年には<淵をめぐる断片>を発表して象形世界の抽象-具象の全ての領域にまたがりあらゆる形式を試みようとしていた。このころ私はさまざまな作品を制作しながら常に思考していたことは、絵画の抽象象形の領域をどのように他の象形世界と分割区別し自体として自立させることが出来るかであった。当然の事として表現においては、作品行為に先立って思考が解決できるものは思考以外に有り様もなく、作品と表現意識の双方は分裂と混乱とを繰り返していた。そして<流転の淵>をスタートさせたとき、私の両手にあったのは漠然とした抽象イメージとあらゆることを抽象絵画で試みようという堅い意志だけであった。それから7年、無限の彷徨という意識形態のなかで、四方八方に飛び散った破片を拾い集めながら抽象絵画の全体性を再編構築しようと流浪して来た。今にして思えばディコンストラクション(脱構築)への志向が私の内にあったのだろうが、当時としては破れかぶれで大海に小舟で漕ぎ出したような心境だった。そして現在、今も当時と情況は少しも変わらない。ただ、この小さな舟の後方にいくっかの軌跡を残せたということと前方を少しばかり見通すことが出来るようになったぐらいか。だが、まだまだ海は広く、<流転の淵>はとても終わりそうもない。困難な試みが今後も続くだろうと思う。 1991.12  


 「引き裂かれた湖」のこと

1968年、私は京都のある大学に進学した。4年制の普通大学文学部で専攻は社会学科の新聞学専攻であった。将来、ジャーナリストになることを半分夢見、半分は漠然とした希望で大学の門をくぐったと言っていいだろう。当時、大学紛争はまだ吹き荒れていた。授業は休講が多く、私は仕方なく高校生の時から続けていた絵を描くために絵画サークルに入り、暇があるとアトリエに顔を出しては油絵を描いていた。しかし、紛争の嵐はそこにも吹きだまりのように渦となって舞っていて、政治と芸術の問題とかを観念過剰の頭を抱えてわたしたちは議論し、また悪態をついては仲間と飲酒したりする日々が続いたのもその頃だった。ようするに誰もがそうであったように、青春という時間帯を弄んだだけなのか。また、怠惰であることに徹することもできずに、不安と過剰な観念から逃れるために絵を描いていたといったところか。「京都の風景」という作品を描いたのもその頃だ。しかしそこも1年で止め、授業のない時ときは自宅の自室で絵を描くようになった。そしてしだいに絵にのめり込むようになった。その時、無意識にも将来絵描きにもなろうと考えていたのかもしれない。1969年には「熱」、1970年には「湖への投身」という作品を描いた。1970年の10月、わたしはそれまで描き溜めた作品を集めて大学の学生会館の一角で初の個展をする。その頃には、わたしは将来、画家になる決意をしていたのだが同時に自己の表現が壁にぶちあたり一種の袋小路に入ってしまっていた。そして1971年7月のある日、わたしは「湖への投身」を含む数点を、傍らにあったドライバーを突き刺しキャンバスを引き裂いてしまう。自己の作品にたまらなく否定的になった結果だった。その後、全ての作品を納戸の奥に放り込み二度と取り出すことはなく、わたしは大学卒業のために授業と卒論に専念するようになった。そして卒業とともに私は東京に出て、いわゆる就職をせずにアルバイトを繰り返しながら絵を再び描き始めるのである。
 時はたち1982年、わたしは大学生時代の作品を初期作品として個展発表を思い立ち、東京へ運ぼうとして大阪の実家の納戸から当時の作品を引き出してみて一驚する。キャンバス全体が灰色の黴で覆われていたからだ。その後「湖への投身」の引き裂かれた部分を修理して「引き裂かれた湖」と改題して、他の作品とともその年の7月に発表する。キャンバスが引き裂かれてから11年後のことである。この作品は現在、東京の私のアトリエの片隅にある。


虚構のエレメントー三人展への自注ー
 坩堝の底のアマルガムー作品展への自注ー
     
      ー後記ー

     ○いつの頃からか制作ノートの片隅などに書き散らした文章などがだいぶん溜まってしまった。乱雑を極めた断片を整理し、ついでにワープロに打ち込んだ。であるからこの小冊子は一枚のフロッピーディスクから呼び出されプリンターで印刷されて簡単に出来上がったものである。こういう自然発生的な誕生の仕方を私は気に入っている。

〇さて、いよいよ私はこの小冊子をいわばひとつの通信壜として世 間という大海に放り投げ込むとしよう。何処の誰へという当ては全くないが、願わくばこの場所からできるだけ遠方の未知の人に拾ってもらいたい。 (宮本記)
1991.12