目を使う文化と使わない文化 見えない世界のワンダーランド(8)

私は中途の視覚障碍者です。
30代から徐々に視力を失う難病を発症し、現在はほぼ全盲です。

当たり前に目が見えていた状態から徐々に視力を失っていった時にはかなり絶望的な気持ちになりました。日常生活のほとんどを見ることに頼っていたわたしは、将来的に「失明する」ということがすごくこわかったからです。

その時のわたしにとって、目が見えなくなる、ということは「目をつぶって歩く」とか「いつも真っ暗闇の中にいる」みたいな状態だとイメージしていました。
その状態は当時の私にとっては、
「まわりが何も見えなくて何もできなくなる」
という状態に思えました。

年月が過ぎ、私がほぼ完全に見えなくなってから約10年がたちました。
今、私は日常生活のすべてを目に頼らない生活を送っています。
それでも私には現在これをパソコンに向かって書いている部屋の中のようすも、外を盲導犬と歩いている時のまわりの状況もある程度「見えて」います。

もちろん現在の私は、目を使って字を読むことも人の顔やまわりの風景を「目で見る」ことも全くできません。

でも今の私の状況は、
「真っ暗闇の中にいる」状態とは全然違うし、「まわりが何も見えなくて何もできない」わけでもありません。

「目が見えなくなること」=「何も見えなくなって何もできなくなる」ということではなかった、というのが見えなくなった私が知った事実です。
見えなくなって行った当時はあんなに絶望したりこわがっていたりしたのに、みえなくなってしまった今は絶望的でもこわくもありません。
見えないことにもちろん不便さは感じますが、家族や盲導犬やIT技術に助けられて、日常生活で困ることはほとんどありません。時には自分が見えないことを忘れていることさえあります。

かつてあれほど絶望的だと思っていた状況の中で現在生活しているはずなのに、全くそんなふうには思えないのはなぜなのでしょうか?

たぶん私は一つの文化から大きく異なる別の文化へと移行したのだと思います。
それは「目を使う文化」から「目を使わない文化」への移行です。

世の中の多数を占める「目を使う文化」を生きている人は、外部からの情報の80-90%を視覚情報に頼っていると言われます。
この文化では、目が見えなくなるということは外界の情報の大部分を失うことを意味するので、これを絶望的な状況だと考えます。

一方私が今生きている「目を使わない文化」では、外部の情報をほぼ100%視覚以外の聴覚、触覚、嗅覚、気配を感じる感覚などに頼っています。
目から外部の情報は入って来ませんが、私の脳は視覚以外の感覚情報をもとに自分のまわりの世界を「見て」います。
それは目が見えていたころに比べれば、おぼろげで不確かなものですが、何も見えていないわけではありません。
それは目が見えている人が夢を見たり、過去の情景をイメージで思い浮かべることに似ていると思います。
それらは「目を使わずに脳で見る」ことだからです。

私の脳の中の「見る」機能は生きていて、見えていた時には目から届いていた膨大な視覚情報が来なくなったので、「見る」ためにほかの感覚の情報を元になんとかしようとしているのです。
それはまるで工場やレストランでそれまで作っていたものの材料が全く入らなくなったので、一所懸命に代わりになる材料でなんとか作っている、という感じです。

私は現在目が見えていた時のようにはまわりの様子を細かく正確に見ることはできません。脳で「見る」ために必要な情報が圧倒的に不足しているからです。
外出時には見えている人のサポートが必要なことも多いです。

でも私の脳は、失われた視覚情報の代わりにそれまでほとんど感じることのなかった感覚情報を私に感じさせてくれるようになりました。
例えばかつては感じることのなかった動物や人の愛情の質感を光や温かさとして感じられるようになりました。
私はこの感覚を感じるようになって初めて「愛情」というものが概念ではなく実体のあるエネルギーのようなものなのだと知りました。
これは「目を使わない文化」で生きるようになってから知ったことです。
私は見えなくなることによって「目を使う文化で見える世界の大部分を失いましたが、今は「目を使う文化」の中にいた時には見ることができなかった世界を見ています。

私は大多数の人が「目を使う文化」で生活している社会の中で暮しています。
社会の多くのインフラやしくみが「目を使う文化」に合わせた仕様になっているので、当然文化が異なる私には不便なことが多いです。

これは、自分の生まれた国の文化と大きく違う文化の国に移住した人が、言葉や文化の違いによって経験する不便さと似ていると思います。

「目を使う文化」の人から見れば、「目を使わない文化」で生きている私は世界を見るための情報をほとんど失ってしまった「障害者」にしか見えないと思います。

一方、「目を使わない文化」に生きる私が何より美しいと感じる「愛情の質感」のことを話し手も、「目を使う文化」のたいていの人はその質感を感じたことがないので私の話はほとんど理解されません。

見える人と見えない人の関係を「目を使う文化」のものさしで見れば、「健常者と障害者」という関係に見えがちです。
でも、これを「目を使う文化と使わない文化」という二つの異なる文化をそれぞれ持つ人としてとらえる視点を持てば、一般的な「サポートする側とされる側」という関係だけでなく、異文化間交流としてお互いが驚いたり楽しんだりしながら相互の理解を深めることもできるのではないかと私は思います。

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