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ジェンダーレス

ジェンダーレスの理念として、真っ先に思い浮かぶのは女性の自衛官ではないだろうか。ということは、竹内力のようなごつい男がケーキ屋さんの店員をやっても問題ないという理屈になる。

男という枠にとらわれない意味で使うなら私の外見から女性らしさを感じ取ることは不可能に近い。
しかしジェンダーと言う概念において私は実に微妙な立場にいる。
Cirrus Karlというブランドがまたシンプルで美しい。そのバックを肩にかけて繁華街を堂々と歩くがステータスシンボルではない。

自身の美的感覚を表現しているだけの話である。もしかしたらこれをアイデンティティと言うのかもしれない。
男性用バックはどうしてもゴツゴツした″いかつい〟イメージがあり生理的に無理なだけ。ただそれだけである。

Cirrus Karl(シーラス・カール)について説明は必要だろうか。シンプルなデザインが放つ美しさは秀逸だ。持つ人の個性をさりげなく引き立て、LOUIS VUITTONなどのオレオレ感は皆無と言っていい。

「それ女もんのバッグやろ?」

とツッコミが入っても、「そうよ。可愛いかろ?」と逆に質問で返せば、相手は「......」私は静かにほくそ笑む。

ゆめタウンの2階南側のエレベーターの扉が開く。衣料品店が軒を連ねるコーナーだ。
女性用衣服店の前に通りかかった。
「これかわいいなぁ」それは帽子であったが悲しいかな頭のサイズが合わず購入を断念したり、どうしても興味を惹かれるのは必ず女性用のアイテムばかりだ。

さすがにスカート履きたいと思った事は無い。化粧をしたいと思ったこともない。しかし眉を全部剃って眉墨でラインを描いたことはある。お肌のケアは何より大事だ。化粧水を500円玉の大きさで手のひらに取って顔に塗り鏡で確認する。ちなみに、唇がちょっぴりピンク色になるリップクリームなどは冬になったら好んで使う。

中学生の時、前の席の女子が後ろを振り向く。「那須くん内股やね」と驚かれる。席替えをする度に言われた。なるほど、座ってる自身の足を見ると膝を突き合わせハの字になっている。
現在でもそのスタイルは変わらない。電車に乗り座る時も太ももは膝までピタッとくっついている。それ以降はハの字に開き、足首からつま先にかけてもハの字だ。私は思う。「どうせ俺のこと内股って思ってるんだろな」しかしこればかりは仕方ない。勝手にそうなるのだから。
今でも歩く時はモデルのように内股で歩いてしまう。その様な歩き方が美しいと思うから私は満足なのだが、女性から見れば「男らしさ」を感じることはできないかも知れない。

くどいようだが、私の微妙なジェンダーレスを外見で判断できる人はいない。
強いて名前をあげるなら鋭い洞察力を持つ美輪明宏レベルじゃないと気づかないであろう。

高須クリニック如きでは無理だ。なぜなら彼らは目に見えるものにこだわる。
美輪明宏は心に潜む女性らしさを見抜く。その違いだ。

しかしそんな私でも唯一恥ずかしいと思うことがある。それはスーパーの花コーナーでミニバラを買う時だ。買い物カゴからはみ出た花と私のキャラがものすごくミスマッチである。外見で私をジェンダーレスと判断できない要素がここで露になってしまうのであった。
これは相当の注目を集める。
いや、その視線を感じるのだ。
客の視線だ。
しかし、その一瞬の恥ずかしさ乗り越えれば、私の部屋には、美しい花が飾られることになる。
しょうがない。プラスとマイナスの法則だ。
何かを得ろうと思えば、何か失う。

過去の人生において、「男の人で部屋に花を飾る人なんていないよ」と何回も批判を受けてきた。女性に多かった。妬みかな?と勘ぐったこともある。花を愛でる感性に男も女もないと思うのだが。

ここで気になることがあるとすれば私の恋愛対象であろう。ズバリ言えば女が好きである。しかし結婚歴はない。現在ワクワクメールで女性からメッセージが来てるが、もう1週間以上開いてない。
人の心理を分析するのは得意だが、自分の心を分析することはできない。なんでだろう。

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