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東海林直人のゴロテマ日本史◇中世2(保元平治の乱②~十六夜日記)

※ 語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。

※ S←A←B←C←Dは重要順ランクです※ 「note」は下線を引けないので太字を代用します(以下同じ)


◇中世§11.保元の乱の覚え方(敗者4人)◇A

[ゴロ]ただまあスッと湯麺(たんめん)寄りな保健(ほげん)室
(平忠正(ただまさ)・崇徳(すとく)上皇)(源為義(ためよし)・藤原頼長(よりなが))(保元(ほうげん)の乱)

[句意]ただまあスッと(何気なく)湯麺を食べに寄りなさい、保健室にと、という保健の先生が問題をかかえた生徒にやさしく呼びかける句。「試しに」でもよいと思うが、インパクトのある方が再現しやすいので「湯麺しに」を採用。また「保健」はゴロのため[hogenホゲン]と読んでほしい。[hokenホケン]と読んで再現できるならそれでも良いと思いますが。

[point]
1.保元の乱の貴族の敗者は崇徳上皇藤原頼長 。武士の敗者は清盛の叔父平忠正と義朝の父源為義
[解説]
1.鳥羽上皇が死去直後の1156(保元元)年、後白河天皇忠通、近臣の藤原通憲(信西(しんぜい))の政権に対して、崇徳上皇藤原頼長は武力での反乱に踏み切った。
2.かねて皇位継承をめぐり崇徳上皇は故鳥羽上皇後白河天皇と対立。そして摂関家の継承をめざしていた左大臣藤原頼長は兄の関白藤原忠通と対立していた。兄弟対立の原因は、兄弟の父藤原忠実(ただざね)が長子で関白の頼長と対立し、寵愛した次子頼長を氏長者にしたことにある。崇徳上皇側は、源為義(その子で弓の名手為朝も加わる)・平忠正らの武士を集めた。
3.これに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いでいた後白河天皇忠通や近臣の藤原通憲(信西)らは、平清盛や為義の子源義朝らの武士を動員した。
4.その結果、夜襲案を退けた上皇方が夜襲によって敗れ、乱後、崇徳上皇讃岐に流され、為義らは処刑された(為義の8男為朝は伊豆大島配流)(保元の乱)。

2019早稲田大・文化構想2/12:「
 院政期になると、多いときには3人の上皇が存在するときもあった。とくに、天皇と上皇の対立が顕著になったのは、後白河天皇と崇徳上皇が対立し、戦乱に及んだd保元の乱である。この戦いに崇徳上皇は敗れ、[ C ]国に配流された。
問6.下線dについて述べた文のうち、正しいものはどれか。2つ選べ。
 ア.藤原忠通と藤原頼長は、親子である。
 イ.源義朝は、後白河天皇に味方し殺された。
 ウ.藤原頼長は、崇徳上皇に味方しほろぼされた。
 エ.源為義と源義朝は、親子である。
 オ.藤原通憲(信西)は、後白河天皇に味方し殺された。
問7.空欄Cに該当する国名は何か。漢字で記入しなさい。」
_________________
(答:問6ウ○・エ○、問7讃岐)〉

2018関西学院大・済国際総合2/4:「
A.頼朝勲功ハ昔ヨリタグヒナキ程ナレド、ヒトへニ天下ヲ掌ニセシカバ、君トシテヤスカラズオボシメシケルモコトハリナリ。況ヤ其跡タエテ後室ノ尼公陪臣ノ[ a ]ガ世ニナリヌレバ、彼跡ヲケヅリテ御心ノマゝニセラルベシト云モ一往イヒナキニアラズ。シカレド白河・[ b ]ノ御代ノ比ヨリ政道ノフルキスガタヤウヤウオトロヘ、[ c ]ノ御時(d)兵革オコリテ奸臣世ヲミダル。天下ノ民ホトンド塗炭ニオチニキ。頼朝一臂ヲフルヰテ其乱ヲタイラゲタリ。王室ハフルキニカヘルマデナカリシカド、九重ノ塵モオサマリ、万民ノ肩モヤスマリヌ。上下堵ヲヤスクシ、東ヨリ西ヨリ其徳ニ伏セシカバ、[ e ]ナクナリテモソムク者アリトハキコエズ。
  (『神皇正統記』)
問1.空欄aに該当する人名を下記より選びなさい。
 ア.源頼家  イ.北条時政
 ウ.北条義時 エ.北条泰時
問2.空欄b・cに該当する人物の組合せとして正しいものを下記より選びなさい。
 ア.b:後白河 c:鳥羽
 イ.b:醍醐 c:後白河
 ウ.b:醍醐 c:後鳥羽
 エ.b:鳥羽 c:後白河
問3.下線部dに関連して、12世紀の兵乱の説明として誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しい場合は「エ」をマークしなさい。
 ア.崇徳上皇は、関白藤原忠通と結んで、源為義・平忠正らの武士を動員し、左大臣藤原頼長らを攻めた。
 イ.平清盛と結ぶ藤原通憲に反感を抱いた藤原信頼は、源義朝と結んで兵を挙げた。
 ウ.以仁王と源頼政が平氏打倒の兵を上げると、以仁王の令旨に応えて、園城寺・興福寺や各地の武士団が次々と挙兵した。
問4.空欄eの人物に関して、正しいものを下記より選びなさい。
 ア.平清盛によって父の義朝が滅ぼされた時、伊豆に流された。
 イ.万葉調の歌を好んでよみ、『金塊和歌集』を残した。
 ウ.後見の比企能員を北条時政によって滅ぼされ、自らも修禅寺に幽閉された。
 エ.父の北条時政の後を受け、幕府の実権を掌握し、政所と侍所の別当を兼ねた。
問5.史料Aの著者に関して、正しいものを下記より選びなさい。なお、すべて誤っている場合は「エ」をマークしなさい。
 ア.摂関家の生まれであり、天台座主の要職を務めた。
 イ.伊勢外宮の神官であり、伊勢神道と呼ばれる独自の神道理論を打ち立てた。
 ウ.南朝の重臣として、南朝の立場から皇位継承の道理を主張した。」
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(答:1ウ、2エ、3ア、4イ、5ウ)〉

2018青山学院大・全2/7:「
問14.下線部h平清盛について述べた文として誤っているものを、次の①~④の中から一つ選べ。
 ①娘を高倉天皇の中宮とし、その子安徳天皇を即位させた。
 ②鹿ヶ谷の陰謀事件があった後、後白河上皇を幽閉して朝廷の実権を握った。
 ③平忠盛の子として生まれた。
 ④平治の乱において、崇徳上皇側について活動し敵方を打ち倒した。」
_________________________________________
(答:問14④× ※崇徳上皇→後白河天皇)〉

2018中央大・文2/10:「
 武士の力はやがて政局を動かすほどとなり、都で勃発した、④保元・平治の乱を経て、⑤平氏が中央政界で権勢を誇るようになった。後白河法皇の近臣らが平氏打倒を企てて失敗する[ D ]と呼ばれる事件の後、平清盛は武力で権力を独占するに至った。だが、各地で反平氏の挙兵が相次ぎ、⑥治承・寿永の内乱で平氏は滅亡し、源頼朝が鎌倉幕府を樹立することになる。
問10.下線部④保元・平治の乱について、二つの戦乱で起こった出来事として当てはまらないものを、次のア~オの中から一つ選べ。
 ア.崇徳上皇と後白河天皇、藤原忠通と藤原頼長がそれぞれ争った。
 イ.後白河法皇と対立した平清盛は後白河を幽閉した。
 ウ.源義朝と源為義、平清盛と平忠正という一族同士の戦いがあった。
 エ.藤原通憲(信西)を討つため、源義朝と組んだ藤原信頼が挙兵した。
 オ.平清盛が源義朝に勝利し、源頼朝が伊豆に流された。
問11.下線部⑤の内容を示す史料(抜粋)を、次のア~オの中から一つ選べ。
 ア.日本准三后某、書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る。(中略)好を通じて方物を献ず。金千両・馬十匹・薄様千帖・扇百本・屏風三双・鎧一領・筒丸一領・剣十腰・刀一柄・硯箱一合・同文台一箇。
 イ.保元・平治・治承より以来、武家の沙汰として恣(ほしいまま)にせしかども 元弘二年の今は天下一統に成しこそめづらしけれ。(中略)今の例は皆の新儀也。朕が新儀は未来の先例たるべしとて、新なる勅裁漸々(ようよう)きこえけり。
 ウ.六波羅殿の御一家の君達といひてしかば、花族も栄耀も面をむかへ肩をならぶる人なし。されば入道相国のこじうと平大納言時忠卿ののたまひけるは「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」とぞのたまひける
 エ.禅定法王は、(中略)後三条院崩後(ほうご)、天下の政をとること五十七年〈在位十四年、位を避るの後四十三年〉、意に任せ、法に拘らず、除目・叙位を行ひ給ふ。古今未だあらず。(中略)威四海に満ち天下帰服す。
 オ.今日、女御藤原威子を以て皇后に立つるの日なり〈前大政大臣の第三の娘なり。一家三后を立つること、未だ曾て有らず〉。(中略)「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思へば。
問12.空欄Dに入る事件名を記しなさい。
問13.下線部⑥について、1183年に源頼朝が東海・東山両道(東国)の支配権の承認を得た宣旨の名称を記しなさい。」
_________________________________________
(答:問10イ、問11ウ『平家物語』※イ『梅松論』、エ『中右記』、オ『小右記』。問12鹿ヶ谷の陰謀、問13寿永二年十月宣旨)〉

2015早稲田大・文:「
 下線a保元の乱、平治の乱はずいぶん複雑な政治的対立がらみだに関連して、保元の乱、平治の乱に関する政治惰勢の説明として正しいものを1つ選べ。
 ア 崇徳上皇が弟を譲位させたことは、保元の乱の一因となった。
 イ 藤原忠通は保元の乱で弟頼長と敵対した。
 ウ 源義朝は平治の乱で子息の義平と敵対した。
 エ 平忠正は甥清盛と対立し、平治の乱後に死刑となった。
 オ 信西(藤原通憲)は源義朝に従って平治の乱で挙兵したが、敗れて死去した。
_________________________________________
(答イ ※ア崇徳天皇は弟(近衛天皇)に譲位させられた、ウ義平は味方、エ保元の乱後、オ信西は源義朝に敵対)

2014早稲田大・政経:「
【史料】「鶏鳴、清盛朝臣・(ア)義朝・義康等、軍兵すべて六百余騎白河に発向す〈清盛の三百余騎は二条方より、義朝の二百余騎は大炊御門方より、義康の百余騎は近衛方より〉。この間、主上御輿を召し、東三条殿に遷幸す。内侍、剣璽(けんじ)を持ち出す。(中略)この間、(イ)頼政・(ウ)重政・信兼等、重ねて白河に遣わし了(おわ)んぬ。(7)かれこれ合戦すでに雌雄に及ぶ由、使者参り奏す。この間主上、御願(ごがん)を立て、臣下祈念す。辰の剋、東方に煙炎起つ。御方の軍すでに責め寄せ、火を懸け了(おわ)んぬと云々。清盛等勝ちに乗じ、逃げるを逐(お)い、上皇・(8)左府、跡を晦(くら)まし逐電す。白河御所等焼失し畢(おわ)んぬ。(中略)(エ)上皇・左府行方知れず。但し左府に於いては、已に流れ矢に中る由、多く以て称し申す。(オ)為義以下の軍卒、同じく行方知れずと云々。(9)宇治入道殿、左府の事を聞こしめし、急ぎ南部に逃げ向かわしめたまい了(おわ)んぬと云々。

問2 下線部(2)検非違使の役職に就いたことのある人物を、【史料】中で下線を引いたア~オの人物の中から選べ。
問7 下線部(7)かれこれ合戦すでに雌雄に及ぶ由、使者参り奏すの意味として最も近いものはどれか。
 ア あちこちで合戦が起こり情勢が混乱していると、使者が来て伝えた。
 イ この合戦には男女いろいろな人が加わっていると、使者が来て報告した。
 ウ この合戦の勝負は既に決まったと、使者が来て伝えた。
 エ 合戦がかれこれ長時間に及んでいると、使者が来て訴えた。
 オ あれこれ言っているうちに合戦が始まったと、使者が来て言った。

問1 【史料】が描く戦乱の名称を記せ。
問2 下線部(8)左府で示された人物の姓名を漢字で記せ。
問3 下線部(9)宇治入道殿で示された人物は、この乱において摂関家内部で争いあった兄弟の父である。この人物の姓名を漢字で示せ。」
_________________________________________
(答:A問2オ(源為義)、問7ウ、B問1保元の乱、問2藤原頼長、問3藤原忠実)〉

2014立教大・法経済異文化コミュ:「
問 下線部10)平清盛に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.摂津の大輪田泊を修築して、日宋貿易を促進した
 b.保元の乱において、源為朝とともに後白河法皇の側についた
 c.娘の徳子を近衛天皇の中宮にいれた
 d.六波羅蜜寺を建立するなど朝廷に奉仕し、左大臣に昇り詰めた。」
_________________________________________
(答:a ※b為朝は敗者。なお為朝に関する伝説は多く、近世の滝沢馬琴『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』も為朝伝説を元にしている、c高倉天皇の中宮、d蓮華王院を寄進)〉

保元・平治の乱

◇中世§12.平治の乱の覚え方(おもな勝者敗者各2人)◇A

[ゴロ]良し友信頼(しんらい)/清盛の留守(キヨのるす)を突け
(源義朝・藤原信頼)(平清盛の留守・藤原通憲

[句意]良き友を信頼して清盛の留守を突け、と団結と反乱を呼びかけている句。リズムのため「清盛」は(キヨ)と読んでください。また「信頼(のぶより)」「通憲(みちのり)」はそれぞれ音読み(しんらい)(つうけん)を使いました。この句の構成は、前の二人義朝と信頼が敗者、後ろの二人清盛と通憲が勝者となっています。

[point]
1.平治の乱の負け組が源義朝藤原信頼で、勝ち組が平清盛藤原通憲(みちのり)(信西)である。
[解説]
1.保元の乱後まもなく(2年後)院政をはじめた後白河上皇の近臣間の対立から、1159(平治元)年には、清盛と結ぶ藤原通憲(信西)に反感をいだいた近臣の一人藤原信頼が、源義朝と結んで兵をあげ、通憲を自殺に追い込んだ。
2.源義朝(1123~60)側は、清盛が熊野参詣で留守中に乱(平治の乱)を起すが、武力にまさる清盛の反撃にあい、敗走中に尾張で殺された。乱後、義朝の子の頼朝伊豆に流された。義経は京都の北奥の鞍馬寺に。
3.藤原信頼(1133~59)は、後白河天皇に愛されたが、権勢を振るっていた藤原通憲に昇進を邪魔されて恨み、源義朝とともに平治の乱を起し、敗れて斬殺された。
4.藤原通憲(1106~59)は、妻が後白河天皇の乳母だった関係で側近となる。出家して法号を信西(しんぜい)という。平清盛と結び権勢を振う。勝ち組だが、乱の初めに殺される。史書『本朝世紀』などの著作がある。
5.この二つの乱に動員された兵士の数はわずかであったが、貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての清盛の地位と権力は急速に高まった。

2018早稲田大・国際教養:「
問2.下線部b謀叛(むほん)の賊義朝について述べた文として誤りを含むものはどれか。1つ選べ。
 ア.保元の乱では、藤原通憲と結んで崇徳上皇方を破った。
 イ.保元の乱では、父為義や弟為朝と対立して戦った。
 ウ.平治の乱では、後白河院の近臣藤原信頼と結んで兵を挙げた。
 エ.平治の乱では、平清盛や平重盛と対立して敗れた。
 オ.平治の乱では、後白河上皇と高倉天皇を幽閉した。
問3.下線部d兵革に関連して、12世紀の兵乱の説明として誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しい場合は「エ」をマークしなさい。
 ア.崇徳上皇は、関白藤原忠通と結んで、源為義・平忠正らの武士を動員し、左大臣藤原頼長らを攻めた。
 イ.平清盛と結ぶ藤原通憲に反感を抱いた藤原信頼は、源義朝と結んで兵を挙げた。
 ウ.以仁王と源頼政が平氏打倒の兵を上げると、以仁王の令旨に応えて、園城寺・興福寺や各地の武士団が次々と挙兵した。」
__________________________________________
(答:問2オ× ※高倉天皇→二条天皇。問3ア× ※藤原忠通→藤原頼長)〉

2017早稲田大・教育:「
問4 下線部a平治に関連して、平治の乱についての正しい説明はどれか。
 ア 左大臣藤原頼長と関白藤原忠通が対立した。
 イ 平忠常と源頼信が対立した。
 ウ 乱の結果、崇徳上皇は讃岐に流された。
 エ 乱の結果、源義経は伊豆に流された。
 オ 乱の結果、藤原信頼は滅ぼされた。」
_________________________________________
(答:問4オ○ ※アは保元の乱、イは平忠常の乱、ウは保元の乱、エは平治の乱だが流刑地は鞍馬寺)

2015関西学院大・文法商人間:「
 下線部g保元・平治・治承の時代に起きた出来事として、誤っているものを下記より選びなさい。
 ア.藤原通憲・平清盛に反感を抱く藤原頼長が、源為義と結んで兵を挙げた。
 イ.皇位をめぐる後白河天皇と崇徳上皇の対立を原因の一つとして乱が起こった。
 ウ 源義朝は天皇方につき、父の為義と敵対した。
 エ、藤原成親や僧の俊寛らが平氏打倒の陰謀をめぐらせたが、失敗した。」
_________________________________________
(答:ア※保元の乱の対立(兄藤原頼通×弟藤原頼長)と平治の乱の対立(院近臣藤原通憲×同藤原信頼)が混同されている)〉

2014明治大・政経:「
 下線部(イ)保元および平治の乱について、保元の乱では平清盛と同じ陣営についたが、平治の乱では対立した人物はだれか。A~Eから一つ選べ。 
 A源為義 B源義朝 C平忠正
 D平重盛 E藤原通憲」
_________________________________________
(答:B)〉

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