ループものは何故こうも私の心を掴むのか。
先日、何とはなしに見始めたアニメが思いのほか面白く、気が付くと全25話を見終わっていました。詳しい内容の説明は省きますが所謂”ループもの”というやつでした。
そこでふと思い返してみると、これまでに”ハマった”作品にはループものが多いことに気が付きました。そこでループものは、何故これほどまでに私の心を掴むのか考えてみることにしました。
まず”ループもの”もしくは”タイムリープもの”と称される作品は、何らかの条件を満たすとある時点に時が遡ります。多くの場合、ある人物の死が巻き戻しのトリガーとなっています。そして何らかの目的を達すると、この”ループ”から抜け出すことができます。あるいは”ループ”から抜け出すこと自体が作品のゴールとなっていたりします。
その性質上、多くの作品がSFもしくはファンタジーに分類されます。
しかし時を遡るという現代の科学技術を大きく超えるテーマであるため、実は最終的な部分は登場人物の心情描写であったりします。途中まではもっともらしい説明がなされておきながら、「結局は精神論かよ」という感想になりかねませんが、アニメや映画には非日常を求めている私としては設定の矛盾は然程大きな問題ではありません。それよりも何周も時を繰り返し、目的を達成せんとする登場人物達の深い心情描写に”魂を揺さぶられる”のだと思います。
ここで一つ具体例を挙げると、私の最も好きな作品の一つに「オール・ユー・ニード・イズ・キル」というものがあります。概要を軽くお話しますと、地球外生命体からの侵略を受けて戦争をしており、軍人である主人公ケイジは戦場で死ぬと、とある日の朝まで時が巻き戻り目が覚めるという設定です。その中で圧倒的な技術力を有する地球外生命体を打ち破るため、何度も死んでは経験と情報を得て、ついには伝説の軍人となるというお話でした。詳しくは作品を見ていただきたいと思います。
これら作品の登場人物たちは、最終的な目標達成のために”今の周回”で出来ることをして、次周の己や仲間たちに未来を託します。ここで補足を加えると次周の己は、本当に自分自身であると言えるのか?仮に全く同じ組成で出来た人間で同じ記憶を有していても、一度終わった人生の上に過去に戻って再スタートした自分です。もしかすると今の自分は本当にここで終わってしまい、別の自分が生まれるのかもしれません。ただ次の周の自分も同じ目的を達するために動くだろうということだけは信じることができるでしょう。同じ記憶、同じ思考回路を持っているのですから。そう考えると次周の己も次周の仲間も、”同じ目的を持つ存在”として捉えることができます。
さてここで一つの発見があります。
一つの目的を果たすため今できることだけに集中して次の仲間を信じて未来を託す。これってつまり駅伝じゃないですか?
仮に自分が区間賞を取れずとも、チームが優勝するために少しでも前との差を詰めて次走者に襷をつなぐ。これをSFやファンタジーの形に着飾っているだけで、本質的には全く同じです。だからこそ設定の科学的整合性よりも深い心情描写にこそ、私の”魂は揺さぶられる”のです。
もしケイジの気持ちを体験してみたいと思うのなら、駅伝を走ってみては?