東日本実業団駅伝走ってきました!
タイトルの通り昨日は東日本実業団駅伝を走りました。
昨日の今日でまとまってないので今回は「駅伝」というものについて書いてみようと思います。
まずはこれまでに出場した駅伝を振り返ってみます。
・しらかわ駅伝(高1〜3、社会人×2)
・奧むさし駅伝(高1〜3、大1・2)
・高校駅伝都大会(高2・3)
・高校駅伝関東大会(高1・2)
・弥彦大会(高2)
・府中駅伝(高3)
・男鹿駅伝(大4)
・八王子駅伝(大4)
・奥多摩渓谷駅伝(社会人)
・東日本実業団駅伝(昨日)
通算20回目(※記憶があいまいなので間違ってるかも)の駅伝だったようです。
中学時代は1人陸上部からのスタートということもあり、初駅伝は高校に入ってからでした。こう見ると数は思ってたより走ってますが、実は大舞台はあまり経験がなかったんです。
都大路は毎年「久我山だ」と言われながら東京実業に負け続け、箱根は入学前に27年連続シードが途絶え、4年目には89年連続出場が途絶えてしまいました(苦笑)
今日では箱根駅伝をはじめとした大きな大会は、テレビ放映の視聴率も高く、全国に多くのファンが存在する一大コンテンツとなっています。その一方で日本の陸上界における駅伝の害悪論なども存在しています。しかし私は、駅伝には陸上競技がさらに発展していく可能性が秘められていると思っています。
今回は「箱根至上主義による成長阻害」や「自己犠牲文化の助長」的な話は置いて、コンテンツとしての可能性に着目したいと思います。
まず駅伝の開催の難しさについて。駅伝とは複数人の走者で襷を繋いでその時間を競う競技です。
その性質上合計の距離はフルマラソン以上になることも多々あり、その間は交通規制が必要になります。時間に関してはウルトラマラソンなどさらに長い競技もありますが、各区間のスタート位置が異なるので各中継ポイントを用意する必要もあります。
特に地方大会などでは電車も多くは通っておらず、襷を渡し終えた選手の移動手段という問題が発生します。一方、都市部の駅伝では中継所として利用できる場所の確保が難しくなります。また交通規制の難しさも含めて河川敷での開催などが多くなりますが、競技としての面白みは損なわれてしまいます。
さらに参加者側から見ると区間人数を揃えないと出場できないというハードルがあります。当日に出走できなくなるリスクを考えると補欠も用意しておきたいところですが、学校や実業団チームでもない限り自分が走らない大会のエントリーをしたいという人は少ないでしょう。また市民ランナーの場合は、駅伝に出場するためのチームがないということもしばしば。こういった面からも参加者を集めるのが難しく、マラソン大会に比べて大会開催のコスパが悪いと言わざるを得えません。
一方で駅伝の魅力はそのゲーム性でしょう。基本的には単純な競走でしかない陸上競技は、非経験者からしたら面白みがありません。特に距離が長い競技ほどレースは単調で、終盤に差し掛かる頃にはすでに勝敗が決していることがほとんどです。
しかし駅伝となると区間ごとに人が変わるため順位変動が激しくなります。マラソンでは一度離れた選手は2度と戻ってきませんが、駅伝では大逆転劇が往々にして起こり得るのです。
さらに観戦する立場からすると、チームへの応援という側面が追加されます。野球でいうところの巨人ファン・阪神ファンのようなコミュニティの形成が可能になります。これがコンテンツの拡大には必須項目であり、その為にチームは選手の情報開示をすべきだと思っています。チーム内の情勢を知り、選手の関係性を知ることで、駅伝の文脈を読むことができるようになるため、上述の逆転劇と相まって感動を呼びやすくなるのです。
これは見方によっては安い感動の押し売りとも捉えられかねませんが、そもそも私はスポーツとは人に感動と興奮を与えられなければただの自己満足だと考えています。それができなければ少なくともプロスポーツとしては存続できなくなってしまいます。
そして駅伝は感動の伝達の媒体としては優秀な形式であり、ここに陸上界を拡大するためのヒントが隠されていると思います。
私にとって「国民の大部分が〇〇ファンであるというような帰属意識をもった陸上界を作り上げること」が一つの夢なのです。