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「好き」と「得意」は別で良い。
「好き」と「得意」は、本来なら別物の筈である。
しかし、同一視されることが多い。
例えば、子どもの頃。
本を読むのが好きならば、「じゃあ、国語が得意なのね」。
虫を採るのが好きならば、「じゃあ、理科が得意なのね」。
そんな風に、好きの向こうには必ず「得意」になる道が用意されていた気がする。
好き、というのは感情だ。そのものや行為を好ましいと思う、自分の感覚から発生する個人の気持ちだ。
一方、得意というのは、技能である。その事について精通している、他の人よりも秀でている。これは純粋に、その人の能力の問題である。
本来なら、あまり関係の無いこの二つが一緒くたにされていると、違和感を覚える。
たぶん、素直で真面目な人が多いのだろうと思う。
「好きだから、ここまでやってこれた」
「好きだから諦めずに取り組めた」
そんな専門家や一芸を極めた偉人たちの言葉を、そのまま捉えている。
だから、子どもが発した何気ない「好き」の向こうに、「得意」を見出してしまう。
一芸を極めた人たちは、そのことが「好き」で、なおかつ「得意」であったのだ。
この二つが重なることこそが稀で、だからこそ彼や彼女は大勢の人に注目され、その言葉が日本中に世界中に発信される。
一部分の言葉だけを切り取って、そのことを信じ込むのは危険なことだ。
幼い頃は世界が狭い。
「好き」になるものの数も少なく限定されている。だから、「好き」に集中しやすい。そして、他の子が興味を持っていない物や事を「好き」になれば、他の子よりその物事に精通していたり、秀でてしまったりする。しかし、それで「得意」と決めつけるのは早計である。
成長するにつれて世界が広がる中で、それでも「好き」なものが変わらなければ良いが、「好き」が増えたり、「好き」の順位が入れ替わったりする。そうすれば最初の「好き」は当然、疎かになるし、他の子たちが興味を持ったりもして、「得意」だった「好き」が十人並みになったりする。
それなのに最初の「好き」に縛り付けて、それ以外を「好き」になることを許さないのは、大人の傲慢だ。その子を、たった一つの「好き」に縛り付けて他の「好き」を許さないのは、あまりにも可哀想だと思う。
たまに大人でも「好き」を限定されている人に出会う。大抵、苦しそうな顔をしている。「好き」ならば「得意」にならなければならない、という呪縛に囚われているように見える。
それはもう「嫌い」なんじゃないだろうか。
「下手の横好き」という言葉がある。本人が「好き」で「下手」に甘んじているのならば良い。本人が苦しい思いをしながら「好き」にしがみついているのなら、少しその「好き」から離れたって良いではないか。
「好き」を「嫌い」になりながら、それでもたった一つの「好き」にいがみついているのは、あまりにも苦しいではないか。
「好きこそものの上手なれ」は「好きなものが得意だったら嬉しいよね」ぐらいの軽いニュアンスで捉えておけば良い。
一つの「好き」を追求するあまり、他の好きをそぎ落として縋り付くようにしがみついた「好き」を「下手の横好き」と揶揄されるぐらいなら、「好き」は「好き」に留めたまま、色々な「好き」を増やしていけば良い。
赤が好き。
青が好き。
黄色が好き。
晴れが好き。
雨が好き。
雪が好き。
花が好き。
虫が好き。
カレーが好き。
コーヒーが好き。
あなたが好き。
わたしが好き。
何の「得意」にも繋がらない「好き」がいっぱいある方が、たぶん、心は生きやすい。
「好き」の形は決めない方が良い。
そして「得意」を「好き」と結びつけない方が、きっと自分の幅は広がる。