じいじ 保育士を目指す! はぁ?
このnoteは驚きの連続だ!
保育園の準備と言う記事。入園準備として色々な手芸用品が必要らしい。コップ袋からお当番セットの三角巾。云々。。。
規格もしっかり書いてある。これを保護者に用意しろと言うらしい。私は自宅保育とか孫保育という言葉に「はぁ?」と思うのだが、この保育園の準備用品の数々に「はぁ?」とやはり思うのだ。
保育園の中で必要なモノはある事は当然理解しているが、この数々の準備用品が保護者の負担になっていると保育園側は考えられないのだろうか?
もちろん、趣味の手芸をやりたい人間はいるだろう。そこは否定するつもりは全くない。が、保育園に預ける保護者の大半がそういう人ではない事は私でも理解できるし、そもそも保育園に預ける保護者の背景を考えればその準備が如何に負荷をかけているかという想像力が、保育園関係者にないとすれば大きな問題だ。
可愛いから、合理的だとかの嗜好性の問題ではなく、保育が求められているモノと園児という保育を受ける対象者が如何に快適であるかという問題とは別の話しだと思う。
当然、保護者の負担を軽減し子育て支援を最大化する事が子供達の利益最大化を実現する事につながる。保育園側の趣向や嗜好を保護者や子供達に押し付ける保育園の考え方は、保育の主体が誰であるのかという認識を全く失っていると思う。
そういう保育園が保育を名乗る事自体に憤りさえ覚える。長年の慣習だからやっているとすれば、その慣習がおかしいと思わない無頓着さは、保育の安全や保育の質を疑わざるを得ない。そういう事に敏感でいられないとすれば、保育の現場にいる意味があるのだろうか?保育職としての資質があるのだろうか?
保育が他者存在への眼差しを持てないとすれば、それは既に保育ではない。更に言えば、その事におかしいと声を上げられない職場が如何に危険で如何に組織として機能不全であるか。そういう組織が起こすであろう小さな事故の集積が大きな悲劇を生む土壌である事を認識すべきである。
何が必要で、何を維持しなければいけないのか。保育が常に誰に向き合っているのかを忘れればそれはすでに保育とは呼べない。私はそう思う。
さて、今日はこの辺で。