「こんなことが書きたいわけじゃなかった」

一番最初に文章を書いた時、思ったことだった。


昔から文章を読むことが好きだった。書くことも好きだった。誰かが書いたものを読むのも好きだった。街中の目に入った文字を口に出して読み上げる癖は昔からで今も治らない。
何度も街中の広告にハッとさせられたことがある。今でも大事に胸に秘めている言葉の中にも、いくつか広告の文章がある。

日本語は美しいもので、一つの物事でも表現がいくつもあり、書式は文字数が決められたものから自由形までいくつも存在する。


幼い頃は、小説家になりたいと思っていた。少し大きくなると、自分は小説家になりたいのではなく、ただ文章を書くのが好きなだけだと理解するようになった。もう少し大きくなると、街中にあふれる広告の文章に惹かれるようになった。何を書いて見せて、何を隠すかで文章への想像力が掻き立てられることを知った。思い返してみれば、一番最初にこの人には一生をかけても勝てない、と悟った瞬間は尾崎放哉の「咳をしても一人」を知った時だった。



しばらくして自分の平凡さに気づいて、少し悲しい気持ちになって、私は文章を書くべきでない人間だと考えるようになった。文章を書かないと生きていけない人こそ物書きになるべきだと。それでも文章を嫌いになったわけではなかった。もう少し大人になって、確かに私は書かなくても生きていけるから書かなくてもいいけれど、私が書いてても書いてなくても誰も気にしないということに気づいた。才能がないからと言ってその世界にいる権利まで奪われることはない。誰かは受け入れてくれる。それから、また文章を書くようになった。


文章を書くときは一つだけとっかかりを持って書き始める。いまだに思ってることが全然書けない。頭に浮かんだことが三秒くらいで消えてしまうので一生懸命タイピングするのに、言葉がそれに追いつかない。良いものが書けない。自分の平凡さを毎度毎度しっかり認識する。それでもたまに、ごくたまに、自分の文章力が頭に追いつくときがあって、自分は本当はこういうことが言いたかったんじゃないかと思うことがある。少しだけ、文章を書き続けて良かったと思う時がある。


才能がないなら練習すればよい。苦労せずに続けられることこそが天職だ。そんなことはもう十分わかっている。それでも私は全然書けない。こんなことが言いたいのではなかった、と思いながらいまも書き続けている。


いつか非凡な大人になりたいと思っていたし、特別な人になりたかったし、いつか自分は自分の理想に追いつくものだと思いこんでいた。実際は追いつく間もなく、むしろ理想の進むスピードがどんどん加速してしまって、いよいよ追いつかなくなってきた。


こんなに頭の中と手の中の文字が乖離してくると頭がおかしくなるな、と文章を書き始めた17歳の時、思った。私はもっと沢山のことを考えているはずで、でも頭の中にある考えは全然文章化されてなくて、思考たちは瞬く間に灰になっていく。もっと沢山のことを考えていたはずなのに、手元に残ったのはわずかA4数枚分の文章だった。


書けない。兎に角書いても、こんなことが言いたいわけじゃないと思ってしまう。
きっと今日だって、書きたいことはこれじゃないと思いながら頭の中のことを具現化できずに生きている人間がどこかほかにもいるはずだ。苦しいだろう。漸く書いた自分の文章が三秒ほどでエメラルド色から汚い灰色ともいえぬ黒色になって死ぬ、どこかで見たような使い古しの表現のように思えてくる、あの感覚。


文章が好きだ。文章を書きたい。
書きたい、けれど、書けば書くほど非凡から遠ざかる結果になっていく。でも書き続けている。思えばもう立派に、文章を書く人間になってしまった。

私は今も苦しみながらこれを書いている。
今だってこんなことが書きたいわけではなかったから。


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