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聴診器(後編上)

茜は一緒に探す姿勢をとりながら部屋の中を見渡した。リビングテーブルの上にはいつのものかわからない惣菜の食べ残しや、冷蔵庫で保管の必要のある食品や調味料に至るまで無造作に放り出されていた。

足元には破られた薬袋や新聞雑誌が散乱し危険な導線を呈している。

そのうち勝枝は、何を探していたのかを忘れたようでソファに座り込むと、傍らにいる茜を不思議とも思わない素振りで独り言のように話し始めた。

夜になると隣家の人が「私の部屋を一晩中のぞくのよ」と勝枝は訴えた。
すでに幻覚妄想があるかもしれない。

訪問診療を急いだほうが良いだろう。事務所に戻った茜は早速娘の了解をとり、ヘルパーの吉野みちるを含め、精神科の在宅訪問の医師と打ち合わせる

翌日はみちると同行訪問した。「はーい」と出てきた勝枝が茜一人ではないことに警戒を見せる。

「今日は、二人で回っているんですよ」この人も同じ町内だというと、受け入れた。二人で入室すると、いつもどおり茜が勝枝の話し相手となり、うまく話を引き出すと、勝枝は嬉々として話に夢中になるようになった。

思えば長い間孤立して暮らしており、会話する機会もなかったのに違いない。かつては町内会長の夫と共に快活な人生を過ごしていたことをうかがわせる。

みちるはその間、黙々と本人の気に障らない範囲で片付けを行っていく。的確なタイミングでみちるは勝枝に、散乱した物の要否を訪ねたり、教えてもらう形でやり方や仕舞う場所を訪ねたりしながら。

勝枝は違和感を感じないまま、自分が指示した形で周辺が片付けられていく。いつの間にかみちるは勝枝を誘導して冷蔵庫の中まで開けさせてしまった。
大したスキルだ、と茜は舌を巻く。

もう、娘が用意した食事が底をついていたし、保管管理が悪いため口にするのも危険だった。目配せをすると、打ち合わせ通りみちるは手早く弁当を買いに行って戻ってきた。

「佐々木さん、今日は町内から一人住まいの方にお弁当が出てるんですよ」と手渡すと、一瞬驚いた表情を見せたが勝枝は笑顔で受け取った。

「へえー、この辺も気が利くことをするじゃないの」
もちろん領収書を保管し、代金は後に娘から回収する。
本来支援者の金銭建て替えは原則禁止なのだが、そうは言っていられない。茜とみちるはケースバイケースで動く。

今日は、訪問診療初日だ。
事前に医師とは十二分に情報提供を行い打ち合わせをした。茜は佐々木宅に1人で先に訪問する。
「あら、また来たの?なにもしてもらう用はないわよ」必ずこのやりとりを通過してからでないと室内に入ることができない儀式となっていた。

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まる風太
チップ応援をいただいたことは一度もありません。予想もつきませんが、うれしいのでしょうか。責任が重くなりそうですが、きっとうれしいのでしょうね。