見出し画像

まぐろのさしみ(前編下)

一年前の今頃、初回訪問の時にはさすがに肝をつぶした。何をされるのか、どんな下心があるのかと一瞬のうちに頭の中がパニックになったが、無理して何ごともないように挨拶をし、作業に取り掛かりながら本人の目をぬすんで事務所に電話を入れた。

「あー、その方の癖なんですよ。大丈夫ですから」と上司はわざとらしく笑って電話を切った。もうこれ以上担当変更はごめん、と言わんばかりだった。

そうと聞けば、みちるも自分の中の好奇心がムクムクとわいてくる。話の中で、長く教師をしていたことが分かった。そして見かけはともかく内面はとても紳士だった。

全裸には訳があった。難病のせいで、しだいに体の自由が聞かなくなり急いでトイレに行けず、下着を下すのにも時間がかかりもらしてしまうからだという。みちるはいたく納得した。なるほど、奇行に見えることにもちゃんと理由があるものだ。

「パンツくらい穿きましょうよ、一応私も女性ですから。トイレの時はお手伝いしますよ」慣れてくるとそれくらいはみちるも言えるようになった。すると、しきりと頭を下げて詫び「エチケットじゃなぁ」とパンツをだして穿いた。その後も時々は穿いているが、どうも長年の習慣なのだろう、やはり全裸のほうが気持ちがよさそうだった。

仕事内容は掃除、洗濯、買い物などの家事。訪問時間2時間という今では考えられない時代だった。ヘルパーたちはこぞって自分の腕を振るい、利用者からの人気取りに血道をあげていた。

毎日訪問で家事が可能だった時代、数人のヘルパーが導入されるわけだがその中で、誰の料理がうまいとか、隅々まで掃除に徹底しているかなどの利用者の評価が始まる。

それに翻弄されて、おいしいと言わせたいばかりに食制限のある人に糖や油を使って調理をするヘルパーが多くいた。
かれ等はすでにホームヘルパーの使命を忘れていた。
みずからヘルパーの地位を貶めたのは、この頃の協力員ではなかったのかと思う。

溜郷芳人はみちるの気性を好ましく思ってくれたのか、どんな時も真摯に対応してくれていた。みちるもまた全裸にもすっかり慣れ、彼の個性としか思えなくなり、一物を揺らしながら歩く姿にほほえましさすら感じるようになっていた。


いいなと思ったら応援しよう!

まる風太
チップ応援をいただいたことは一度もありません。予想もつきませんが、うれしいのでしょうか。責任が重くなりそうですが、きっとうれしいのでしょうね。