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タンスの中の思い(後編下)
泰子は部屋の中へは入れない。しかし解放もしてもらえない。理不尽な気持ちのまま、泰子は階下へ急ぐ住人たちの目をそらすことぐらいしかできなかった。
玄関の正面に立ちはだかって自分から「おはようございます」と声をかけるのだ。そうすると、通り過ぎる人は一瞬、泰子の顔を見るため、室内が視界に入らないですむ。
そのうち、上階から降りてくる人の数はほとんど無くなった。太陽が次第に高く上ってきたが、玄関には全く陽が差さず泰子は身を縮ませる。
先ほど尿を踏んだ時の、ジワッとした不快な感触が足裏から離れない。早くあたたかい室内で足を洗い流したい思いでいっぱいになる。
目の前の立石亮介は生から死に変わっているというのに。生を無常というなら死は常住なのか、いや死は無だ。そこに思いを込めるのは生きている人間で、亡きがらとなった人はただ「無」なのだ。
午前中に戻れるだろうかと考えていると、向こうから役所の制服を着た女性が駆け寄ってくるのが見えた。
「草香江さーん」介護保険課の担当だった。
「すみません遅くなりました、ありがとうございました。あとは交代しますので」彼女は深々と頭を下げた。
泰子は警察官に交代する旨を伝えてその場を離れた。
やけに疲れていた。暗く寒い部屋の中に寝かされていた遺体が追いかけてくるようで、体中の緊張が解けない。
喉がカラカラに乾いていることに気が付く。いつの間にか、昼近くになっており、泰子は空腹を覚えた。脳裏には立石亮介の姿がはなれないというのに。
担当は家族にも連絡が取れたと言っていた。息子か娘が居たのだろうか。あの金は離れて暮らす子供や孫のために、わずかな生活保護費から貯めたものに違いなかった。現金が出てきたらもう福祉葬ではなくなる。
保護費から金を残すのは大変なことだ。きっと冷暖房や食事を切り詰めてきたにちがいなかった。立石亮介はいったい何を大切にしてきたのだろう。自分が生きること以外のいったい何を。
金は子どもや孫には届かず、きっと自分自身のあと処理料に消えてしまうのだろう。いろんな事情で保護受給になったのだろうが、優しい家族であってほしい。
泰子は会うことのない家族に思いを馳せる。
泰子は車に乗り込み「ほうー」と大きな息を吐いた。
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