在宅医の孤独(前編上)
「私は本当は医者なんてしたくなかったのですよ」福山正樹医師はポツリとそう言った。
慢性疾患の老夫婦のお年寄りを訪問診療の帰り、立ち会った音無茜を往診車で送ってくれる途中でのことだった。
「私はもともと農家なんでね。土や草の中に居ると心から落ち着くんです」
改めて見れば、骨太で筋骨隆々の身体と裏腹なやさしい表情に、祖先の血を納得する思いがした。
「今でも仕事を放り出して農家をしたいくらいですよ」と真顔で言った。
「先生、少しお疲れですよ」茜は答える。
「したいことと出来ることは違いますからね、わかってるんですけどね」
そういえば、うわさで聞いたことがある。
福山医師の妻は歴々の医者家系だ。地域の名士で資産家でもある。たまたま男子に恵まれなかった娘の夫に、優秀だった福山医師が適任されたのだ。
婿養子ではなかったが、現実は一家の主と思えぬ過酷な扱いだとのもっぱらのうわさがケアマネの仲間まで広がっていた。
むろん、噂の出どころは看護師たちだ。そこからケアマネたちに面白おかしく広がっていくのも気の毒な話だと茜は思う。
真摯で謙虚な福山医師の性格をいいことに、あからさまに睥睨して上からモノを言う看護師を茜は何人も見ていた。
妻は精神を病んでおり、錯乱して夫の勤務する病院に押し掛けた妻を懸命になだめる姿を、幾人もが見ていたからかもしれない。
男の子がひとりいるが、言葉を交わさなくなり、いつの間にか通学できなくなったことも彼を悩ませる理由だったようだ。
ともあれ、これだけの個人情報が一介のケアマネにまで知られている事実が、茜はわがごとのように悔しかった。
こんなに人の気持ちを考えて自分が悩んでしまうほどやさしい先生がなんで蔑まれなければならないのか。
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