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連綿(前編)
羽佐間直哉はけだるそうな様子で相談支援員の神代陽子を迎えた。
「あ、羽佐間です。今日はありがとうございます」と玄関で頭を下げる様子は、ちょうど衛星放送のように動作と言葉がわずかにズレるような違和感を感じさせた。
向精神薬を長年飲んでいる状況が予想された。家の中に入ると、直哉は玄関入り口の部屋を開けて
「母の部屋なんです。今日はデイサービスに行ってますが、ここも片付けてほしいんですよね」部屋には布団が敷きっぱなしにされ、変色してよれたシーツの上には弁当の空きガラやスーパーの惣菜の食べ残しが散乱し、白いカビを吹いているものもあった。
今日は、病院からの依頼で羽佐間直哉に支援目的の初回訪問だったが、直哉には母親の介護保険の支援と本人の障害支援の区別がついていないようだ。
「今日は羽佐間さんのお話を伺いますね。どこでお話ししましょうか」
「あ、じゃあ僕の部屋で」と直哉はズンズン二階へ上がっていく。
母親の情報では、デイを拒否し部屋にこもっていると聞いてきたのだが、今日に限ってでかけたものか。
陽子は落ち着かない思いで後をついて階段を上る。
「あ、奥へどうぞ、そちらへどうぞ」と入り口側に座ろうとした陽子を強引に奥へ誘導する。この家で直哉と二人きり、と気がつくと一抹の不安がよぎったが、陽子は腹を決めて奥へ陣取った。
本人の強い希望で急遽の退院となったらしく、情報提供もそろっていない状態で電話での緊急支援依頼となったもの。
瞳は輝きをなくし、焦点はうつろで呂律が回りにくそうに言葉をたぐる。長い期間に渡り、強い抗精神病薬を飲んできたものと思われた。どんな処方がされているのだろうか、陽子は薬情を見せてもらうことにした。
直哉は、バッグの中にそのままの薬情をもどかし気に取り出すと、半ばくしゃくしゃになった用紙を陽子に手渡した。その指先には振戦があった。
直哉は気ぜわしく、自分の思いについてこない言葉を必死でつなぐように、発症するまでの栄光の歴史を、抑揚のない調子で語るのだった。
陽子は目をそらすことも憚られるような勢いに、薬情を手にしたまま直哉の話に耳を傾けるしかなかった。
近所に同じ病気の姉が居て、母は重度の認知症だというが、陽子は母もまた同じ病いなのではないかと漠然と感じた。
直哉は分厚いファイルを取り出すと「仕事をしていた頃は大きな取引をしていたんですよ」と、どうやら建築に付随する技術者だったようで、数百万単位の領収書が閉じられているのを見せられた。
確かに、それだけの仕事をしていたことは事実だろうが、見積書や納品、領収書の用紙はすでに黄ばみ、日付は10年以上の歳月がたっていた。
直哉の弁は止まらず、その後はしだいに妄想の色を濃くしていくのだった。
「患者の中で力のある人に出会って、退院したらすぐに仕事を回すと言ってくれたんですよ。だから入院している場合じゃないと思ってね」と直哉はニヤリと笑う。
「先生はそのことを知っているのですか?」
「いやぁ、まさか。そんなこと言ったら退院させてくれないですよ」と直哉はフンと得意げな表情を見せた。
なるほど、模範患者を演じ、母の看病を要するためとの理由で退院にこぎつけたものだった。
精神疾患者どうしの約束は、十分気をつけないと再発の発端になりかねない。まとまりのない直哉の話からは「力のある人」の背景がつかめない。
現役で仕事をしている人なのか、仕事の実権を握っている人なのか、何より大事なことはその人の病状は寛解しているのか、妄想はないのか、など陽子は気がかりだが、ここは黙って直哉の訴えと考えを聞き、どうしたいのかをつかみたい。
そのうちに玄関で人の声がし、母親が帰宅したようだ。直哉は一切それにはかまわず話し続ける。
「今度は自分で会社をおこして社長になるつもりです。その人のところに挨拶に行って仕事をもらいます」
「羽佐間さんは技術者だったわけですが、入退院の繰り返しの間に年数がたってしまいましたよね。以前と同じことができそうですか?それに、そのための機械だって必要になりますが、それはどうするおつもりですか?」と言うと、直哉は震える指先で、何やら部品のようなものを取りだし、
「大丈夫ですよ。僕は工程はすべて覚えていますから。それに機械は親しい社長が居るのでいつでも使っていいよと言ってくれてるんです」
直哉は時間の概念をなくしているようだった。頭の中では10年以上前の出来事や人間関係が、そのまま生きているようだった。
人の気配を感じて陽子は入り口に目をやり「あっ!」と息をのんだ。母親が階段を音もなく這い上がり、床に顎をつけたまま、すごい形相で陽子を睨んでいたのだ。
「あの、こんにちは。直哉さんの担当になります相談支援員の神代と申します」あわてて陽子はあたまを下げる。
「今、神代さんと大事な話をしてるんだからお母さんは部屋に居て」と、直哉はもつれ気味の言葉で、邪魔と言わんばかりに母を追い払った。
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