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聴診器(後編中)

「佐々木さん、今日は町内の健康診断がありますよ」というと、怪訝な顔をして
「へえー、いつからそんなものがあるの?」と不審そうな表情。
「ええ、今は高齢の方が増えましたからね。早期発見をしていつまでも元気で暮らせるように、一人住まいの方対象におうちをまわってくれるんですよ」
方便の嘘だが、勝枝はふーんと言いながらどこか人ごとの様子。
「ああ、ちょうど佐々木さんの地区は今頃の時間のはずですよ」と偶然気がついた様に話す。福山医師とは重々時間厳守を打ち合わせている。

先のりした茜が下ごしらえをして、タイミングよく医師が訪問する手はずになっている。早すぎては本人の気持ちの準備が整わないし、遅くなってしまったら、せっかくの段取りが勝枝の記憶から消えてしまう。

茜が内心ハラハラして待っていると、玄関のチャイムが鳴った。
よし!タイミングギリギリだと茜は玄関に走る。
「あらあ先生、いまお話ししていたんですよ。佐々木さーん、ほら先生が来てくれましたよ」と目配せをして医師を室内に招き入れた。

一瞬にして勝枝は固い表情になる。
「私は、病気はしてないですよ。見てもらう必要はありません」ときっぱり言う。

ほんとうなら看護師を従えて訪問するのだが、今日は状況に即して医師一人で来てくれた。福山医師もどこか緊張を隠せない。微妙な空気が一層、場の雰囲気を固めていくようだった。

「夜は眠れていますか」「気になることはありませんか」など質問する医師に佐々木勝枝はかたくなに姿勢を崩さない。

取り付く島がないとはこのことだなと茜はその情景を見て思った。
「せっかくだから、診てもらいましょうよ」と茜の言葉に医師がすかさずカバンから聴診器を出した。

これが災いした。勝枝は正座の姿勢から反射的に立ち上がる身の軽さを見せた。医師はすでに聴診器を首にかけている。

勝枝は素早く部屋の隅に逃げた。医師はそれにつられて聴診器を片手に勝枝を追いかけるような形になってしまった。

こうなるともういけない。追えば逃げるの図が出来上がった。
茜は予想外の展開に驚いたが、同時に、緊迫した状況というのはどこか可笑しさを生み出してしまうものだ。

ふふふ、作戦失敗だ。医師に演技を求める方が間違っていた。結果を急ぐあまりに考えが早計だったとしか言いようがない。

それは数分の間、子どもの鬼ごっこのような様子を呈してしまった。しょうがない、今日は撤収しよう。

その時、勝枝が医師に体当たりをした。一瞬で医師のわき腹をすり抜けて外へ出て行ってしまった。

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まる風太
チップ応援をいただいたことは一度もありません。予想もつきませんが、うれしいのでしょうか。責任が重くなりそうですが、きっとうれしいのでしょうね。