タンスの中の思い(前編下)
冷たくシンとした空気の奥に、ちゃぶ台にひじをついて前かがみの老人が固まっていた。(まただ、嫌な予感はこれだった)泰子は意を決して靴を脱いだ。一歩を踏み出した時、靴下に冷たくジワッと沁みるものがあった。
(しまった!)汚物だ。うす暗さに目を凝らすと尿だった。チッと舌打ちしたい気分になったが、気を取り直し素早く靴下を脱ぐと、手持ちのタオルで足の裏を拭き常備のビニール袋に入れた。
「立石さん、どうしましたか」もう生きていないことを確信しながら、通り一遍の声掛けをする自分に身震いする。
肩に手をかけたらすでに氷のように冷たく、死後硬直していた。やはり昨晩中にくるべきだったか。もし、自分の担当だったらきっと来ていたな、との思いが泰子の脳裏をかすめた。
首肩はもちろんのこと、枯れ枝のような前腕にも硬直が完成していた。死後8時間から12時間くらいは過ぎているだろうか。
昨晩、介護保険課が電話を入れて、翌日ケアマネジャーが訪問することを伝えている。亡くなったのはその後まもなくだったのだろう。
どうしたものかと一瞬の逡巡の後、救急隊に電話をする。ここは遠目から見て様子がおかしいので連絡したとのていをとる。万が一事件の場合だと面倒なことになるため、かかわりを少しでも薄くするためだ。
「訪問したのですが、部屋の中で動かず返事もありませんので救急をお願いします」と119に電話を入れると「生きてますか」と聞いてきた。
ここはとぼけて「わかりません」と答えると、電話の向こうで「では、部屋の中に入って息があるかどうか確かめてもらえますか」というではないか。
いまさら、すでに確認済みですとも言えず躊躇すると、確認してもらわないと困りますという。仕方なく、「では入ります」と答えて間を置き「亡くなってます」「体も冷たくて硬直しています」と答えた。
「では、警察の方になります。こちらから連絡しますので、そのままそこでお待ちください」と電話が切れた。
あーあ、言わんこっちゃない。午前中は仕事にならないな、今日は忙しいのにと不謹慎だが泰子はため息をついた。
待ち時間に午前中の予定をスタッフに振り分けて、介護保険課の昨夜の担当に事の次第を連絡した。交代を依頼したところ「今、人が出払っていて席を外せないので、しばらくお願いしてよろしいでしょうか」という。おまけに随時報告しろとのこと。
言葉は丁寧だが強引でNOと言わせないものがある。泰子は次第に腹が立ってきた。その担当の方が立石亮介とは面識もあり、少なくとも泰子よりは距離が近いはず。
寒い夜に一人で亡くなったというのに、何を置いても駆けつけてやろうと思わないのだろうか。立石氏にしても縁もゆかりもない見知らぬ奴に、死に顔を見せたくはなかっただろうに。