聴診器(後編下)
「あっ、佐々木さん!」あわてて外へ追いかけるが、勝枝の足は速く庭から階段を駆け下りたかと思うと、坂道を全速力で下って行った。
福山医師と茜は、しばし呆然と立ちすくむしかなかった。勝枝に土地勘が残っていることは娘のはなしや近況から分かっていたから、しばらくすれば自分で戻れるだろう、茜はそう考えることで動揺する気持ちを静める。
福山医師が申し訳なさそうに
「なかなかむずかしそうですね」と神妙な面持ちになっていた。
「ええそうですね、思っていたより時間がかかりそうです。厄介なことをお願いしてすみませんでした」茜がそういうと、
「いえいえ、私の力不足です。今後も協力させてください」と言ってくれた。
茜は帰り道、町内の民生委員さん宅に寄り、いきさつを伝え見守りを依頼した。佐々木勝枝のことは、近隣住民の懸案だったので、すぐに連絡を回しましょうと言ってくれた。
また、管轄の地域包括センターにも立ち寄り、万が一を考えて届けを出す。佐々木勝枝の件は事前に相談を持ち込んでいたため、理解が早くすぐに協力体制を取ってくれる。支援者数人の力より、近隣住民の目がいちばん安全の守りになるものだ。
肩を落として事業所に戻ると、茜の様子から、管理者の草香江泰子が察したように立ち上がるとコーヒーを淹れてくれる。
「少し、いそぎすぎたかな」泰子はねぎらうような視線で茜にそういうと、熱いコーヒーを差し出した。
「はい。自分のペースで進みすぎたようです。せっかくヘルパーの吉野さんが関係性を作ってくれようとしているのを、私が邪魔をするところでした」と茜は頭を垂れる。
「佐々木さんには目下急を要する病気はないようだし、時間はしっかりあると思うわよ。問題なのは認知症だから、しばらく吉野さんに任せてみたらどう?なにもかも一度に整えなくてもいいのじゃないかな」
「はい。そうします」つい、娘の困惑した表情を早く笑顔に変えたくて、少々功を焦りすぎたかもしれないと茜は振り返る。
明日からはまた、近所のお世話おばちゃんに戻って、ゆっくり関係性をつないでいこう。すぐすぐ答えが出るわけじゃない、私がいちばん分かってたはずではなかったか。
泰子と茜が話している間に、民生委員から電話が入った。
「いま、佐々木さんが自宅に戻りました。スーパーで〇〇さんが見かけて一緒に帰ってきたそうですよ」
良かった。やはり近隣住民の力はすごい。茜は心から安堵した。
泰子が淹れてくれたコーヒーのひと口が、茜の緊張を溶かしていくようだった。