在宅生活を夢見る(後編下)
翌朝、白木苗子が入院していた病院のワーカーから電話が入った。苗子が昨晩、自分で手首を切りつけたのだ。
救急病院に搬送したところ命に別状はなく、傷の手当てが終わったら精神科に再入院予定だという。
もう日常生活に戻れる機会はなくなったなとよし子は思う。
早朝に看護師が訪問したところ、苗子はベッドの上で倒れており呼びかけにも答えなかった。左手首を切ったのではなく、包丁を突き立てたものらしい。当然傷は深く、ベッド上は血の海だったという。
台所の固い台の上で傷つけてからベッドまで歩いたようで、室内にもおびただしい血液痕があったらしい。
いくら看護師とはいえ、その惨状には肝をつぶしたに違いなかった。たとえ何人で現認したとしても、話をしたとしてもそのショックが分散されるわけでは決してない。
場面に遭遇したものたち、報告を聞いたものたち、後処理をするものたちすべて、それぞれに同じだけの気持ちの負担がかかる。
よし子は急いで、翌朝に訪問すると言っていたみちるに報告を入れた。この惨状は見ない方が良い。
みちるは電話の向こうで一瞬絶句し「そうでしたか、嫌な予感はこれだったんですね。ご連絡ありがとうございました。なにか手伝えることがありましたらお知らせください」と言って静かに電話を切った。
部屋を調達した病院のワーカーたちがまた後始末をすることになるのだろうと、よし子はやるせない思いをどうしようもない。
一体、私たちがやったことは何だったんだろうか。はたしてなにかやれたことはあったのだろうか。
たった二日で白木苗子は何を見て、何を思って、何に絶望したのだろうか。
何もわからない。もとより理解の範疇を超えていて理解できるものではなかった。
ただ、重苦しく息苦しい徒労感がよし子の胸をいっぱいにしていた。
外科的処置が終われば精神科に舞い戻ってくる。そこからまた仕切り直しだ。
自傷行為は自殺行為と混同されやすいが、これらは全く違う。自傷行為は死ぬために行うわけではない。
自分の辛さや悲しさを分かってほしいと無意識に吐露する行為なのだ。やめようと思ってやめられるものではない。
自分を傷つけることで、心の痛みを体の痛みに転嫁するかのように。
苗子の心の傷を癒すことはできるのだろうか、とよし子は思う。そのためには苗子が自分に気持ちを開いてくれる必要がある。
それ以前に、自分の世界から解放されることのなかった苗子は、意識が戻ったときに私を覚えているだろうか。
苗子が左手首を突き刺した心境に、私の支援はいつか到達できるのだろうかと、よし子は重い課題に押しつぶされそうな自分を感じていた。