在宅生活を夢見る(後編上)
さて、白木苗子のアパートの階段の下で二人は申し合わせたように深呼吸をした。自然に表情がひきしまる。
精神疾患の方の支援は、時にして思いもよらぬ場面を目撃することになる。ふたりは何事も起こっていないことを祈りながら、無言で階段を上った。
「こんにちはー」明るく声をかける。返事はない。
何度か声掛けをするが返事がないため、一瞬目を合わせると思い切ってドアを開けた。
苗子は昨日と同じようにベッドの上でかがみ込んでいた。
「おじゃまします。昨夜はねむれまし・・・」すかさず顔を上げた苗子が、険しい表情で唇に指をあてると「シーッ」しゃべるなと言うジャスチャー。
よし子とみちるは目を合わせ、無言のまま無事な状況にホッとした。どうやら、携帯電話の操作を、遠隔でサービス係に聞いている様子だ。
「だからね、それが分からないって言ってるでしょ!」
「では、もう一度ご説明しますので・・・」
苗子のヒステリックな言葉にも動じず、終始穏やかに対応する男性インストラクターの声が携帯から聞こえる。おそらく長い時間、この担当者を拘束しているのだろうと思えた。
それにしても相手の男性の対応が素晴らしい、よし子は相談員になれば向いてるだろうなと思う。
延々と続きそうな状況下で二人は手分けして、まず食べ物の確保と、足元周りを片付け安全な導線を確保した。
まだ、白木苗子の背景がほとんど分かっていないが、今日は引き上げようということに決めた。
どこから見ても、独居は無理と判断される状態で、退院を急ぐ理由がどこにあったのだろうかと、よし子は釈然としない思いを感じてしまう。
昨日残してきたものは食べていたが、ペットボトルの飲み物は残っていた。薬の影響で口渇があるはずだが、水道水でも飲んだのだろうか。
同じ姿勢で、終わる気配のない携帯電話の会話を続ける苗子を残して、二人は退室した。お互いの胸中は言わずとも、やりきれない思いでいっぱいになる。
長く支援をしていても不思議に思うのは、高齢者の場合と違って残存能力に個人差が大きいことだ。苗子の場合もそうだ。
日常のことや社会生活は皆目不可能だが、携帯電話の操作を聞くために、窓口に電話をすることはできているのだった。
ほかにも、人と接触することもままならないのに、社会福祉協議会に行ってお金を借りてきた人もいた。そういう知恵を使う時は能力を発揮することができるのだ。
つまり本人の興味を引き出せれば、最大能力を発揮できるのではとよし子は考えている。
「担当者会議は後でいいです。とりあえず心配なんで明日も来てみます」とみちるが言ってくれた。
まさか、苗子の在宅生活が二日で終わってしまうとは、二人ともこの時には思いもしなかったのである。