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切ない虐待(前編)

「母さんはどこに行ったんだ!」しまった、夫が早く起きてきた、とまさ美は慌てた。夫の本庄誠は、認知症状が顕著になってきた母親のタヅを心配するあまり、過干渉になっているのだった。

「今朝はお天気が良いので、庭の草取りをされてますよ」と、まさ美は努めて何でもないように返事をした。

とたんに夫の誠は庭に飛び出していくと、自分の肩ほどもない小柄な90歳になる母親を、抱えるようにして家の中へ連れ戻した。

「まだ寒いだろう、風邪でも引いたらどうする。雑草は私が刈っておくから」と言葉だけは優しいが、険しい表情でみけんを寄せている。

義母は血の気のない顔色のまま固まっていた。また暴力が出なければいいが、とまさ美は祈るような思いで
「陽がさして暖かかったんですよ」と夫の意識を自分に向けた。

予想通り、誠は母を椅子に座らせると、今度はまさ美に食ってかかってきた。
「なんだって母さんを一人で外へ出すんだ!いつも言ってるだろう、躓いて転びでもしようもんなら間違いなく骨折だぞ。入院して寝たきりになったらどうするんだ!」と強い口調でまさ美に噛みついてきた。

ここで返答をしようものなら火に油なのは承知しているので、まさ美は黙って聞いているふりをする。これでタヅに対する暴力は回避できた、とまさ美は安心した。

誠とまさ美の子供たちはみんな独立して家を出ていったので、今は広い実家にタヅと夫婦の三人で暮らしている。

本城家は代々名士で、亡くなったタヅの夫は一人息子の誠を自意識高く育ててしまったようだ。

学力優秀だった誠は会計士の道を選び、会社勤めをほとんど経験せずに独立したため、人間関係の機微や人との調和などが欠落していた。

それでも異常なほどに几帳面な性格は仕事に反映し、現役中はかなりのクライアントを集め、まさ美は専業主婦でゆとりある暮らしをすることができたのだった。

誠は仕事上の外出も多く、家に残した子供や母親の面倒は、妻のまさ美に任せてきたのだったが、65歳で仕事を引退してからは、ほとんど家から出なくなった。
タヅの一挙手一投足はおろか、まさ美のしてきた家事に至るまで口出しをするようになったのだった。

タヅは90歳になるが、大きな病気もなく安定した毎日を送っていた。

それもこれもまさ美が、十分に栄養バランスに気を配って、摂取しやすいような食事管理をしてきたからに他ならない。

タヅはささやくように、まさ美にだけ時々本音を漏らした。
「たまにはどこかに行きたいねぇ」
「きょうはお天気だから庭の手入れをしていいかい」
「ときどき自分で料理をしないと忘れちまうようだよ」
など、誠が現役で忙しくしていた頃は、まさ美がこれらの要求を出来るだけ叶えてやってきたのだった。

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まる風太
チップ応援をいただいたことは一度もありません。予想もつきませんが、うれしいのでしょうか。責任が重くなりそうですが、きっとうれしいのでしょうね。