
【短編小説】手を離すとき(現代、しみじみ)
「はなさないでね。ぜったい、ぜったいだよ。はなしちゃだめだからね」
娘がさけんだ。
僕は自転車の後ろをつかみ「もちろん」と笑った。
休日の公園。
子供用の自転車からは補助輪が外れたばかりだ。
僕はゆっくりとこぎだした自転車の後ろをついて行く。
自転車をつかんで支えたまま。
初めはよろよろとしていたが、次第に真っ直ぐに進み始めた。
スピードが出て、姿勢が安定してくる。
もう、そろそろいいだろう。
僕はそうっと手を離した。
必死に前だけを見る娘は気づかない。
ひとこぎ、ふたこぎ……。
バレないようについて行くが手は触れていない。
手を離したところからしばらく行って、ふらついて転んだ。
「もう! パパのうそつき!」
起き上がるなり、娘は怒った。
ずいぶん前から手を離していたことに気づいていない。
僕は笑いをこらえながら、娘をなだめる。
「ごめんごめん。がんばったね。ずいぶん上手くなった」
「パパがつかんでたらもっといけたのに」
大丈夫、つかんでなくても行けたよ。とは言わずにおいた。
そのうち手を離したら、そのままずっと遠いところに行ってしまうのだろう。
あの後、何度も「はなさないで」があった。
そうして娘はひとりで自転車に乗れるようになった。
手を離していたことに気づいた娘は、怒るより先に驚いた。
そして、つかんでいなくても乗れていたことに喜んだ。
娘はもう、「はなさないでね」とは言わなかった。
結婚式の日、入場の扉の前で娘は僕の手を取った。
白いドレス姿がキレイだと思う。
入学に卒業、成人して、就職して、そのたびに僕は少しずつ手を離していった。
そして今日、もうひとつこの手を離さないといけない。
ゆっくりと扉が開き、列席者から喜びの声が上がる。
手離すために、長い道を手を組んで歩く。
もう転ばないよう支える必要はないのだ。
ひとりでどこへだって行けるのだから。
その時がくると、娘は自分から手を離した。
「離さないで」なんて、言えなかった。
(カクヨムKACで書いたもの)