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シロクマ文芸部/初恋


『秋と本』というタイトルの本が非常階段の脇のベンチに置き忘れていた。
 こんな場所に忘れ物なんて珍しい。滅多に人が来る場所ではないのに。
 未波はその本を手に取った。コーデュロイのような手触りの深紅の表紙。
 『秋と本  ジェフ・ベケット』
 筆者の名前も初めて聞く。有名なのかもしれないが知らない。
 そもそもそれほど読書家ではない。
 17歳の未波は小説より漫画が好き。
 入院生活が長いので時々図書室で本を借りたりするが
 文学というより中高生向けの少女小説が主だった。
 『秋と本』は重かった。多分3センチはある上製本。
 膝に置いてぱらぱらと捲ってみた。
 小さい文字がびっしり詰まっている。しかも上下になって。
 こんな難しい本よく読む気になるなあ。
 そう思いながらページを弾いてると
 突き当たりの非常階段の扉がギッと開いた。
 「うー寒うっ!」
 「さすがに寒くなってきましたねえ」
 11月の刺すような冷気と共に二人の男性が中に入ってきた。
 ひとりは入院用の青いパジャマにスカジャンを羽織った金髪。
 足に包帯を巻いて松葉杖を付いていた。
 もうひとりは紺色のブレザーの男子高校生。
 年の差はありそうだが話し言葉は親しげで先輩後輩のようである。
 どちらも寒そうに肩を縮めていた。
 プンと苦い臭いがした。非常階段で煙草を吸っていたらしい。
 未波は膝に本を乗せたまま固まった。
 内心あたふたしてるのにすぐには動けなかった。
 「あれ。置きっぱなしになってました?」
 未波に気付いた男子高校生が言った。
 彼はとても背が高かった。ウェーブの掛かったブロンズ色の髪。
 優しい話し方で初対面なのに遠慮なく笑顔を向けてくる。
 未波はたじろいだが一秒後には魅了されていた。
「ごめんなさい。あの、忘れ物かと思って…」
「いいんです。ほんとに忘れてましたから。すいません」
 未波がおずおずと本を差し出すと「どうも」と彼は受け取った。
 関節が丸く浮き出た指はすらっと長くて綺麗だった。
 男の人の手。それはいつも接してる医師の手とは全然違く見えた。
 「ドア、鍵閉めちゃっていいですか?」
 本を脇に挟んで彼は言った。「もう寒いから出ないですよね?」
 にっこり微笑みながらも未波の目的を見透かしているようだった。
 「外から誰か入ってきたら危ないからねえ」
 そう言って鉄製の関貫を下ろすと静寂の廊下にガチャンと響いた。
 「木村さん、もう病室帰る?」
 彼は振り向いて金髪の男性に言った。
「そうだな。腹減ったから戻るか」
 二人はやってきたエレベーターに乗った。
 ボタンの前に立つ高校生はこちらに顔を出して「乗ります?」と聞いた。
 未波は咄嗟に「いいです」と首を振っていた。断るのが癖になっている。  
 自分ももうここにいる意味がないのになぜか「はい」と言えない。
 彼はまだ未波を見ていた。いいの?待つよというように。
 本来は立ち入り禁止になっている最上階。
 寒い廊下に点滴スタンドを引っ張った患者がいれば心配して当然だった。
 素直になれない自分がもどかしいのになぜか動けない。
「どうぞ。行ってください」
 つっけんどんな言い方をしたと思ったが遅かった。
 感じ悪い女の子と思ったに違いない。分かっていても謝れなかった。
 明るく振る舞えない自分に後悔するのになかなか変えられないのだ。
 彼はわずかに一礼して扉を閉じた。
 二人の姿が消えてゆきエレベーターは下降していった。
 ほっとしてるのに寂しさが募る。なんだかすごく。なんだかとても。
 未波は鍵の閉じた非常階段のドアを見つめた。
 本当は今日ここに下見に来た。来週飛び降りるために。
 四年前に発症した病。もう三度も手術しているのによくならない。
 来週また手術が予定されているがやった所で治る保証もない。
 長い入院生活は未波から少女の柔らかい時間を根こそぎ奪った。
 とりとめない友達とのお喋り。お洒落。部活や体育祭でのチームワーク。
 アイドルに夢中になることや泣いたりときめいたりする恋の喜びも全部。
 診察に検査。手術の度にか弱い肢体を晒けだす繰り返しが心を凍らせた。
 自分を大事に思えず自暴自棄になりいつしか死を求めるようになった。
 そして次の手術の前日に自死することを決めた。
 その場所に選んだのがここ。5階にある立ち入り禁止フロアの非常階段。
 この高さから落ちればまず助からない。その瞬間を夢見ていた。
 なのに今胸を占めるのは本を受け取ったあの指の形。明るい声。笑顔…。
 漫画で何度も読んだからこの高鳴りの理由を未波は知っていた。

 翌日から面会時間になると彼を探した。
 友人の多い彼らの溜まり場は一階のラウンジ。賑やかな声ですぐ分かる。
 未波は偶然を装って近くを通り過ぎてみる。
 本当は挨拶のひとつもしたいのに
 紺のブレザーを見つけるとつい顔を伏せて隠れてしまう。
 時に彼の方が先に気付き親しげな笑みを投げてくる。
 目が合うと嬉しくて体が熱くなるのに未波はすましたふりしかできない。
 そして聞こえてくる会話から彼の名前が「ゆき」というのを知った。
 
 ゆき。ゆき。ゆき。ゆき。ゆき。ゆき。ゆき。ゆき。ゆき。ゆき。
 声には出せない名前を口の中で唱える。夜も昼も。何度も。何十回も。
 そうしていつしか予定していた手術の前日になっていた。 
 その日は木村のリハビリがあって彼はひとりで図書室にいた。
 窓際に座る紺色の背中。明るい色の髪が秋晴れの光で眩く輝く。
 棚の陰に身を潜めて未波は彼を見ていた。
 そして大きな窓を見上げながら思った。
 非常階段があるのはこの上。
 もし実行していたら私は彼の目の前に落ちていたんだ。
 今日飛び降りないでよかった。
 彼を悲しませないで済んだ。
 バカな衝動を彼が止めてくれたのだ。
 いつもなら手術の前日はどうしようもなく憂鬱になるのに今日は違う。
 切なさが押し寄せても心は沈まないままだった。
 
 それから一週間後。 
 無事に手術が成功した未波はICU から一般病棟へと戻った。
 まだ安静が必要だがこれまでにないほど経過は順調で食欲もある。
 未波はラウンジに行きたいと母親に頼んで車椅子で下に降りた。
 傷がまだ痛むがそれより彼に会いたかった。
 だがあの集まりはいなかった。中庭にも外科病棟の休憩所にも。
 木村はもう退院してしまったらしい。
 そうすれば当然彼も来ない。もういなかった。どこにも。もう
 やけに広く見える廊下。未波の心は鳥のように彷徨った。
 永遠てこういうことなんだと思った。二度と会えないこと。
 今更にいくじなしだった自分を心底悔やんだ。

 未波が部屋に戻ると担当の看護師が待っていた。
「これ未波ちゃんにって頼まれたの」
 すいと差し出されたものに息が止まった。深紅の表紙の厚い本。
「時間があったら読んで欲しいって。
 他の患者さんのお友達だった人だけど未波ちゃん知り合いだったの?」
 怪訝そうな顔をする看護師に未波は頷いた。
 「はい。知ってます。すごくいい人です」
 未波はいつになくはきはきと答えてにっこりしてみせた。
 母親も看護師も面食らったように口をあんぐりさせた。
 けれどそんなこと全然気にならなかった。
 ええ。いい人よ。だって私の命の恩人だもの。
 未波は両手で本を受け取り感触を確かめるように指でなぞった。
 ぱらりと開いてみると最初のページに赤く染まった紅葉が挟まっており
 一枚の紙が添えてあった。
 
『もう読んでしまったのでよければもらって下さい
 とてもよい本なのでお時間のある時に是非
 いらなければ引き取ります
 来週の月曜日一階のラウンジに来ます
                   三島雪』
 
 乾いた楓の葉を手に取った。ちっちゃい掌は美しい茜色をしていた。
 外に出られない自分のために届けてくれた秋。
 震える口唇でありがとうと呟いた。
 いつもあなたが引き合わせてくれるのね。
 私今度こそ勇気を出してみる。
 そしてこの本の感想をちゃんと伝えるわ。
 初めての恋と『秋と本』を未波はぎゅっと胸に抱きしめた。
 


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 こちらの企画に参加させていただきました。
 「秋と本」もジェフ・ベケットも架空のものです。

#秋と本
#シロクマ文芸部


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渡鳥
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