短編小説/カジイさん
「あのね、今日からしばらく知り合いの人が一緒に住むことになったから。カジイさんっていうの。いい人だから祐介も仲良くしてね」
学童に迎えに来たママが車の中で言った。初めて聞く名前だった。
「誰それ」
「お友達よ。男の人」
運転する横顔が綻ぶ。僕はママの機嫌のバロメーターを計るプロだから、今日はかなりいいとすぐ分かる。ただのお迎えなのに花柄のワンピースなんか着ているのがその証拠だ。
家に帰ると、かつてパパの席だったダイニングテーブルの椅子に座ってスマホをいじってるカジイさんがいた。
「おかえり、美佐子さん」
顔を上げたカジイさんはものすごくカッコいい男の人だった。ウェーブした明るい色の髪に人懐こい笑顔。モデルみたいに背も高い。
「ただいま。ごめんね遅くなって。息子の祐介よ。今年四年生になったの。
すぐご飯作るわね。そうだ。せっかくだからすき焼きにしようか。この時間ならスーパーもお肉の割引きしてるから」
なんの記念日でもないのにすき焼きなのは、ママにとって記念日と同等の「いい日」だからだ。ぐつぐつ踊る鍋から漂う甘じょっぱい匂い。見たことないぐらいのお肉の山。
「おいしいね」
カジイさんは本日初登場なのに、ひょいぱくひょいぱくと肉を食べる。ママは彼がたくさん食べると嬉しそうに笑う。冷えたビールをグラスに注いでやり、卵がなくなれば率先して冷蔵庫に取りに行った。
「自分のことは自分でやりなさい」
毎日僕には言ってるのに、どういうわけかカジイさんには何もやらせない。おかわりもニコニコしながらよそってくれた。
ママがお風呂に入ってる間、僕はリビングで算数の宿題をしていた。向かい側のソファーで足を組むカジイさんは相変わらずスマホをいじってる。
「しばらくさあ、お世話になるから」
首を傾けて僕を見ていた。高級なモンブランのクリームみたいな色の瞳をしていた。
「ああ、はい。分かりました」
僕はわずかだけ目を動かし、また分数の計算に戻った。
「まあまあ役に立つよ。おれ」
カジイさんはずっとニタニタしてて、組んだ足をぶらぶらさせていた。
役に立つと言ったカジイさんだったが、昼も夜も家にいて、仕事をしてる様子はなかった。かといって家事が得意なわけでもなく、気が向いたときだけ焼きそばやミートソースを作ってくれる。けどママはすごく喜んだ。キッチンに洗い残しのフライパンやまな板が置きっぱなしになってても全然怒らない。三年前に離婚したパパとは靴下を洗濯機に入れないだけでケンカをしていたのに、カジイさんが来てからママはどんどん優しくなった。
基本何もしないカジイさんだったが、僕の学校行事にはいつも参加した。授業参観には必ずいたし、運動会も合唱コンクールも見に来て、恥ずかしいほど大きく手を振ってくる。
「祐介のお父さんカッコいいね」
気安くて目立つカジイさんは学校のちょっとした名物になっていた。勘違いしてるクラスメイトに「お父さんじゃなくてカジイさんだよ」と訂正する。すると今度は廊下を歩く彼を「カジイさーん」とみんなが声を掛ける。にっこり応える彼は特に女子から人気があった。だからカジイさんが「祐介帰ろう」とみんなの前で僕の肩に手を回すと、照れ臭さと得意な気持ちの半分ずつで、じんと体が熱くなるのだった。
カジイさんが来て数ヶ月が経った頃、知らない女の人が娘らしき女の子を連れてやって来た。僕より少し年上の子だった。
「公園で遊んでなさい」
少しこわばった顔でママは言った。無理やり追い出された僕は、どこも行かず、ドアの前で座っていた。扉が閉まる時に合ったカジイさんの目がなんだか寂しそうだったからだ。
ドロボウ。人のものを。いつかあなたもこうなるのよ…。そんな言葉がちょくちょく聞こえた。訪ねて来た二人の正体を僕はなんとなく分かっていた。だってあの女の子、カジイさんにそっくりだったから…。
ママの泣き声が辛くなって、やっぱり途中から公園に移動した。なにがどうなったのかは分からないが、たっぷり日が暮れてから帰ると、ママはもう泣き止んでいて、カジイさんも家にいた。ママは赤い目をしながら、なんか元気が出るものがいいわねと言って、その日もすき焼きになった。
「祐介はお父さんほしい?」
ママがふと聞いた。向かいに座るカジイさんは体を少し斜めにして卵をかき混ぜていた。
いらない。僕は首を振った。本心だった。だってお父さんになったら、きっと窮屈で、カジイさんは出て行ってしまうから。
そう、とママは目を伏せて頷いた。カジイさんは僕にちらと微笑むと、テーブルの真ん中で煮立つ鍋から一番大きい肉を取ってぱくりと食べた。