【小説:盛岡】みえないさくら (1)
2006年
一 石割桜
北東(きたとう)北(ほく)や北海道の入学式に桜は無い。ましてや卒業式の時期に咲いていたら狂い咲きだ。
盛岡ではゴールデンウィークの一週間位前からやっと桜が咲き始める。盛岡盲学校にも、その薄い肌色をした新しい校舎を取り囲むように、毎年連休が始まる直前からソメイヨシノが見事に咲き出した。
健児は歌詞の中に桜が出てくる卒業の歌を聴いたり、音声解説付きのテレビドラマで入学式のシーンを観(・)たり(・・)するたびに、「卒業や入学に桜を重ねるのは、東京とか南のほうの奴らの勝手なイメージだ。盛岡で卒業や入学のシーズンのイメージといやあ、ぐちゃぐちゃのグラウンドとまだ寒くて乾いてる風だ」と思う。
そんなひねたことを思いながらも健児はむしろ盛岡の桜の咲くタイミングが好きだった。健児の家は盛岡市北部の新興住宅地にあったが、家の近所に桜の木は無い。だから学校に来られない春休みに咲かれるより、学校が始まってから咲いてくれたほうが、つぼみから花が咲くまでの過程をじっくりと楽しめるからだ。
ドラマを観る、といっても健児には映像が見えない。音だけ聴いてテレビや映画を楽しむことを盲学校の高等部の仲間同士では、単純に「観る」と言っていた。
健児は生まれてすぐに網膜芽細胞腫という眼のガンが見つかり、右目は摘出したため義眼で全く見えず、左目もごくわずかに光を感じる程度の視力しかない。だから健児には桜の花の色が分からない。薄いピンクと言われてもピンクを見たことが無いのでやっぱり分からない。
でも小学二年の理科の授業で桜の花に触れて以来、健児は桜の花が大好きだった。理科を教えてくれたのは優しくて物静かな若い男の先生で、健児は「よしお先生」と呼んでいた。
その日、よしお先生は健児を肩車して立ち上がり、満開の桜の花の中に健児を胸の辺りまで突っ込ませた。
「健児くん、鼻で深呼吸してみて」
健児はすでにふわふわした桜の花のクッションに包まれ、視覚に頼れない分、鋭くなった触覚にとても落ち着く心地よさを感じていたが、よしお先生にそう言われ、恐る恐る鼻から息を深く吸い込んだ。花の香りは、大人の女性に抱き締められたような、気が遠くなるような快感と安堵感をもたらした。
よしお先生は上手に枝を避けながらそのまま歩き回り、健児に桜の花をしばらく体感させた。それまでもチューリップやアサガオ、コスモスなどの花には何度も触れてきていたが、健児はそれまでに感じたことのない圧倒的な香りと質感のボリュームを感じ、一気に桜の虜になった。
よしお先生は表向き「歩行練習」と称して、石割桜にも散歩に連れて行ってくれた。
官庁街の裁判所の庭にあるその桜の木は、巨岩を押し割ったかのように伸びたエドヒガンザクラで、樹齢四百年といわれる老木であったが、天然記念物として保護され、丁寧な手入れがされていたため、毎年見事な花を咲かせていた。
健児が行ったその日も平日に関わらず、観光客がたくさん見物に来ていた。
よしお先生は、桜の木の大きさが分かるように、健児を抱えたり肩車したりして、桜の花に触れさせながら周囲を歩いてくれた。
「『石割桜』っていう名前だけど、実際は『岩割桜』かな。教室の半分位の大きさの岩を真二つに割って伸びてるんだ。元々割れていた岩の間に種が落ちて、それが伸びてきたっていう話もあるんだけどね。でももう四百歳のお爺さん桜(ざくら)なのに今でもふかふかの立派な花を咲かせているんだ。すごいよね」
「桜の花の命はすごく短いけど、その桜の木はずっと生き続ける。なんとなく不思議な感じがするな」
柵があり、岩に触れることは出来なかったが、よしお先生のきめ細やかな説明にその力強さを想像し、健児の記憶に深く刻み込まれた。
よしお先生は健児に点字を教えてくれた先生でもあった。
幼稚部から盲学校に通っていた健児が本格的に点字を習い始めたのは小学部に入ってからだ。
点字はできるだけ幼いうちに習い始めたほうが覚えやすい。指の触覚の発達が止まった大人になってから覚えるのは至難の業だ。
幼稚部でも若い女の先生が教えてくれたが、健児にはその必要性が分からず、内心、拒否していた。その先生が嫌いではなかったが、小さな六つの突起の並び替えを何度も触らされては、「これは?」と質問されることにうんざりしていたし、それを勉強する必要性も分からなかった。その頃の健児には「見える」「見えない」ということが、今よりも遥かにどういうことなのか分からなかったのである。
でも一年生からよしお先生が担任になって、健児はすっかり点字が好きになった。
よしお先生は桃太郎やかぐや姫、シンデレラなどの絵本を手作りしては健児に与えた。それは熱を加えると樹脂が盛り上がる特殊インクで簡単な絵を描き、点字でストーリーが打たれたものだった。ほとんどは母親が枕元で読み聞かせしてくれた物語と同じものだったが、自分で読む楽しさを健児は知り、それと同時に点字を覚えたい、と言う気持ちが湧いてきたのだった。
初めて「天井」に触れさせてくれたのもよしお先生だった。健児は、それまでも気温や風の変化、ズックの履き替え、床や壁に触れたりすることなどで、屋内と屋外の違いは当然知っていたが、屋根や天井をもちろん見たことも無ければ、それらに触れたことも無かったため、どれだけの高さにそれがあるのか見当が付かず、空間としてのイメージは漠然としていた。よしお先生は健児を肩車すると、机に上り、健児に教室の石膏ボード製の天井に触れさせた。目の見える人にとっては理解し難いことだが、この時、健児は一生忘れることが出来ない程に感動したのだった。
全盲の人は、触ることができない物を知ることは難しい。よしお先生は、健児が触れて知ることができるようにいろんな工夫をした。
よしお先生の授業中は、必ず教卓の上に粘土が置かれていた。教科書に載っていたり、授業の中で話題として出てきたもので、健児がイメージ出来にくいものは、すぐに粘土で大まかな形を作って触れさせた。触れさせながらその大きさや細かな点を言葉で補足した。奈良の大仏やピラミッド、東京タワーなどの形を健児が始めて知ったのは、よしお先生が作った粘土細工でだった。
よしお先生は大学を卒業してすぐに盛岡盲学校に赴任し、健児の担任をした。健児は学校に勉強をしに行くのではなく、完全によしお先生に会うために行っていた。ピアノを弾いても歌を歌っても上手なよしお先生は、健児が初めて憧れた大人だった。
一度も叱られたこともなかった。いや、小学生が我儘や悪戯の一つも言ったり、したりしないわけが無いから、もしかしたらあったのかも知れないが、少なくとも健児に「叱られた」という嫌なイメージを与えることはなかった。それほどよしお先生は温厚な人だったし、健児はよしお先生を信頼し切っていた。
よしお先生は四年生の終わりまで健児の担任をして、沿岸の養護学校に転勤して行った。その時の健児のショックは凄まじかったが、最後の修了式でも、別れの離任式でも泣かなかった。新学期が始まり、新しい担任の先生が教室に来て挨拶を始めた時に初めてよしお先生がもう来ないことを実感して、ワンワン泣いた。担任の先生は何が起こったのか全く分からず、右往左往するしかなかった。健児が生まれて初めて人との別れの辛さを味わった瞬間だった。
健児はそれからも優しい先生や友達、寛容な家族らに囲まれながら、ごくごく普通に、子供なりの大きなストレスを抱えることも無く、日々を過し成長していった。ただ、健児の心に常によしお先生の存在はあり続け、日々の生活で何かきっかけがあるごとに、健児はよしお先生との思い出を頭に浮かべていた。よしお先生とは二、三ヶ月にお互い一通ずつのペースで点字での手紙のやり取りが続いていた。そのよしお先生からの手紙と「いつかまた一緒に勉強ができる」という思いが健児の生活をどこかで支えていた。
その二年後、健児の小学部の卒業式が近づいたある日、担任の先生から、よしお先生が病気で亡くなった、という話を聞いた。正月にも「今年は会えるといいね」と点字で打たれた年賀状をもらっていた健児には、俄かに理解できず、ただボーっとするしかなかったが、その日の夕方、テレビで桜前線のニュースを聴いた途端、突然家族の前で健児は泣きだした。まるで狂ったように大きな声で泣き、それは泣き疲れてそのまま眠りについてしまうまで続いた。
翌朝、泣き止んだ健児の脳裏にふと石割桜の横でよしお先生が言った言葉が聞こえた。
「桜の花の命はとても短いけど、その桜の木はずっと生き続ける。なんとなく不思議な感じがするな」
この時初めて健児は「死」というものを「怖い」と感じ、同時に「生」というものをどこかしら「淋しい」ものと子供なりに漠然と感じるようになった。
季節外れに降った湿った名残雪が、桜の花の生まれたての芽を覆い隠した日の事だった。健児はその冷たい名残雪をこの日から心の隅に抱え込んだ。
二 メル友
四月の初め、健児は暖房の効きが悪い体育館で高等部普通科三年としての始業式に出ていた。二年から三年になったということに何の区切りも感じることなく、いつものように顔を下に向けてただ立ちながら、
――だる…。ニコチン切れか…。
健児には視覚以外の障害は無く、体の成長はごく普通で、未熟児だったのが嘘のように身長は十七歳の平均より三センチ程高い。一般の高校生、特に体育会系のクラブの高校生に比べれば明らかに運動不足だったが、寄宿舎の規則正しい食生活のおかげか、肥ることもなく、体重もほぼ平均的だ。
盛岡盲学校には、幼稚部からあん摩、鍼(はり)灸(きゅう)の資格を取るための高等部専攻科まで、全員合わせても生徒が四十五人しかいない。
幼稚部は、先生のピアノや子供の歌声が響く、いわゆる一般の幼稚園や保育園と同じような雰囲気だ。違うのは、健児も嫌々ながらやった点字や白い杖を使った歩行の練習があること、クラスメイトがたったの一人とか二人しかいないことぐらいである。
高等部専攻科には普通科を卒業した二十歳前後の生徒の他に糖尿病などで視力が弱くなってしまい、資格を取るために入学してきた五十歳を過ぎた生徒もいる。専攻科の教室の雰囲気を例えてみるなら、定時制の夜間高校みたいな感じである。
そんな四歳から五十三歳までの生徒の前で、いつものように対象を絞りきれない校長の退屈な話が続いた。その話を完全に聞き流しながら健児はふと「来年の今頃、俺はどこで何してんだ」と考えたが、すぐに「なるようになるか」と頭を切り替えた。
進路は希望すら決まっていなかった。成績は悪くない。いや盛岡盲学校では何年かに一人、と言われるぐらいに良い。
本人の希望は決まっていなかったが、家族や教師、周囲の方向性は勝手に決まっていた。それは、「専攻科に行って、あん摩、鍼灸の資格を取る。その後、関東の大学の教員養成課程に行って盲学校のあん摩、鍼灸の教師になる」という多くの盲学校の優等生がこれまで通ってきた道だ。これは視覚障害者にとって最も安定した進路でもある。
でも健児には、何の魅力も感じない道だった。そもそも、あん摩、鍼灸に興味がなかったし、一対一で会話をしながら他人の体に触れる、ということがとても苦痛に思えた。かといって自分が何をしたいのか、そして盲人である自分に何が出来るのかが分からない。あん摩、鍼灸しかないのならそれでもいいか、とも思いかけていた。何の目標も無く、ただ時間に流されながら何となく授業を受け、試験を受け、そしてその結果を何の感慨も無く受け取る日々が続いた。
退屈な始業式が終わり、新しく転任してきた教師を紹介する新任式が始まった。
健児はよしお先生との別れを実感して泣いた小学五年の同じ日を思い出し、一瞬だけ心がキュッと縮んだ。
壇上には校長と数人の教師が上った。校長は新しく転任してきた教師の名前、前任校、受け持ちのクラスや教科を紹介したが、それを何の気なしに聞いていたクラスメイトが思わず「エッ!」と声を上げた。
健児のクラスは男子が三人、女子が一人。二年までは樋口という四十代の女の教師が担任だったが、三月に転任していた。だがクラスメイトで健児と一番仲がいい明弘は、「どうせカバゴンが担任だろ」と予想し、周りも同調していた。
「カバゴン」は進路指導部長をしている高田という五十五歳の国語の教師で、普通科の卒業学年を受け持つことが多かった。当然、健児にはその風貌は分からなかったが、弱視の生徒達が付けた教師のあだ名は、普通の学校と同じようにやはり代々受け継がれていくのだった。
カバゴンは「一秒でも早く進路希望を決めろ」と言うのが口癖で、それは三年の春にもなって進路希望がはっきりしない健児には耳が痛い台詞だったが、カバゴンが嫌いではなく、生徒が教科書を朗読している途中、「ここがいいんだよ」と思わず言ってしまう単純な性格や、受験テクニックに走らない授業も好きだった。だから「カバゴンが担任でもいいか」と健児は思っていた。
しかし、校長は壇上に上がった五人のうち、四番目の教師を「普通科三年担任」と紹介した。
校長の紹介に続いて、新任の教師達の挨拶が始まる。クラスメイトは四番目の教師の挨拶に集中した。健児は「別に誰が担任でも…」と白けながらも耳を傾けた。
健児には、もちろん見えなかったが、その教師は、身長が高く細身で、三つボタンの紺のスーツに水色のワイシャツ、それに紺とシルバーのレジメンタルのネクタイを太めに締め、短めの髪の前髪だけを立てたスタイルは、スマートな印象を周囲に与えていた。
「盛岡高校から来ました飯坂(いいざか)高道(たかみち)です。歳は三十三歳。担当教科は社会。特に政経が専門です。趣味は、音楽鑑賞とスポーツ観戦。高校までサッカーをしていて、盛岡高校でもサッカー部の顧問をしていました。モットーは何でも楽しくやること。盲学校は憧れていた学校なので、今はとても充実した、うれしい気持ちです。ただ、点字をはじめ、分からないことがたくさんあるので、みなさんいろいろ教えてください。よろしくお願いします」
「盛岡高校」という言葉に健児は反射的に「深田朱実」を想った。
盛岡高校といえば県内一の進学校で、盲学校から一キロも離れていない距離にある。
健児たちのクラスは、一年の時から同じ学年の生徒達と年に二、三度のペースでお互いの学校を行き来し、合同で授業を受けたりしながら「交流」をしている。盛高の授業のレベルは当然高く、まるで中学生が高校の授業を受けているようだと健児でさえ思った程だ。
ただ、なかなか同年代の女の子たちと触れ合う機会のない健児たちにとって、調理実習で女の子に手をとって世話をしてもらったり、ちょっとしたことが出来ただけで「すごーい!」と感嘆の声を上げられたりすることが、もの凄く刺激的だった。
朱実は二年の時の交流で健児と名刺交換をした生徒だった。
その時は「ハンディキャップとは?」というテーマで小グループに分かれてディベートをしたのだが、ありきたりの健児にとって退屈な意見が飛び交う中で、
「私、『障害』って、障害者が一方的に持ってるものじゃなくって、健常者と障害者の間にあるものじゃないかなって何となく思う…。『壁』みたいな。同じ障害でも意味としては『ハンディ』って言うより陸上の『ハードル』に近い感じ。だからお互いが乗り越えようとするともっと早く近づけるんじゃないかな。一年のときから交流しててなんとなくそう思った…」
と朱実が発言したことがとても強く印象に残っていた。
その日はディベートの他に、盛高生だけが『点字の名刺作り』を盲学校の教師の指導で行い、その三十六人分の名刺がクラスで唯一の全盲の生徒、健児に渡された。健児はパソコンで作り、点字プリンターで印刷した同じ名刺を全員に渡した。他の三人はそれぞれごく普通の手作り名刺をパソコンで作り、十二人対一人の割合で交換した。
電話番号やメールアドレスの交換は禁止、とあらかじめ言われていたので、わずかな期待をしていた四人ともがっかりしていた。が、健児がもらった名刺に一つだけアドレスが打たれているのがあった。朱実の名刺だった。後から分かったことだが、朱実は、あらかじめメールアドレスを点字で打つ練習をしてきていて、点字だったので、近くにいた教師にも全く気付かれなかったのである。
新しい担任の挨拶はありきたりだったが、朱実のことは別にして、健児が少しだけ驚いたことが二つあった。一つは超進学校から障害児学校に来たこと。もうひとつは盲学校に「憧れていた」と言ったこと。二番目に関してはいわゆる大人のリップサービスと言うやつだろう、とも思ったが、その話し振りにはどことなく誠意すら感じ、その真意を問質したい気にもなった。
「カバゴンじゃなかったな」
始業式が終わって、三階にある教室まで戻る途中、中央に薄い点字ブロックが敷かれた一階の廊下で明弘が言った。
明弘は弱視で眼鏡を掛けている。百六十七センチで身長が止まってしまったのが悩みだ。
盲学校というと、ほとんど目が見えず、点字を使っている健児のような全盲と呼ばれる人をイメージしがちだが、盛岡盲学校の生徒の七割は墨(すみ)字(じ)(視覚障害者に関わる世界では、点字に対して、いわゆる一般の文字を墨字と呼ぶ)を使用する弱視の生徒である。全国的に見ても大体似たような比率だ。
全盲と呼ばれる人にもいろいろあり、健児のようにほとんど暗闇(正確には暗闇の概念すら全盲者にはない)の中にいる人もいれば、目の前に差し出された手が動くのが分かる人や同じように目の前の指の数が分かる人など様々である。
当然、弱視もその障害によって見え方は様々で、近視に似た見え方の「ぼやけ」、霧がかかったように見える「かすみ」、視野が狭かったり、欠けていたりする「視野狭窄(きょうさく)(欠損)」などがある。弱視でも進行性の障害を持つ場合は、その進度を見ながら点字に切り替えていく場合もある。
つまり、弱視と全盲の見え方に関しての境界線は、はっきりとはしておらず、使用するのが墨字か点字かで呼び分けているのが一般的だ。
さらに、眼鏡を掛けるなどの矯正をしても〇、三未満であれば、一般の学校での学習は困難とみなされて盲学校に入学してくるケースが多い。
「てっきりカバゴンだと思ってたのにな」
やはり弱視のクラスメイト友孝が、未熟児だったせいか、明弘よりさらに小さい体をジャンプさせるようにして、後ろから二人の間に覆い被さりながら言った。友孝は眼鏡を掛けてもあまり矯正されないため、眼鏡は掛けていない。
友孝と明弘は、学生服の第二ボタンまで外し、中のトレーナーやTシャツが見えるようにいつも着ていて、たいていはズボンのポケットに手を突っ込んで歩いている。二人のアドバイスで健児もその善し悪しがよく分からぬまま、制服のボタンを二つ外す習慣が付いていた。ただ、健児にとっての両手は、移動の際の重要な情報源で、ポケットに入れたまま、という訳にはいかなかった。
「あの盛高から来たなんて大丈夫かよ」
明弘の言葉に皆が同感だった。
「大丈夫って、あの先生がかよ、それとも俺達がかよ」
健児が言うと、二人とも考え込み、会話が途絶えた。
教室に着いて、三人がそれぞれいろんな期待と不安を頭の中でめぐらしていると、あとから来たこのクラス唯一の女子でやはり弱視の加奈子が、
「なんか歳のわりに若くてかっこいい先生だったよ。千佳と一緒にわざと遅れて体育館を出てきて、近くで見ちゃった!」
とはしゃいで言った。
「へー」
とは反応したものの、その情報は男子にとってあまり興味のないもので、特に明弘にとっては腹立たしいものだった。明弘と加奈子は中学部の頃から続く、盲学校では教師も含めて知らない人がいない公認のカップルだ。
加奈子は強度の近視で、厚い眼鏡を掛けると○、三近く見え、盲学校の入学基準にぎりぎりぐらいの視力がある。中学校二年の途中まで盛岡市内の中学校にいただけあって、地味な子が多い盲学校の生徒としては、趣味もおしゃれもごく普通の高校生っぽい。
明弘は中学部の入学の時から、友孝は高等部の入学の時から健児のクラスメイトになった。明弘と加奈子は、別々の小学校と中学校から、弱視が進んで授業に付いていけないと言う理由で転校してきた。友孝は高等部が無い八戸の盲学校の中学部から入学してきた。
思春期だった中学部の頃、お互いに弱視で、転校前の学校で同じような境遇にあった明弘と加奈子は、自然な形でカップルになった。
初めてその事実を健児が明弘から聞いたとき、明弘は「加奈子と付き合うことになった。けど俺にとってはお前との友情のほうがずっと大事だ」と健児に言った。健児はクサイ台詞だな、と感じつつもそれ以来、明弘とますます仲が良くなったし、その頃から「親友」という言葉を意識するようになった。単純な性格で、面倒見が良く、尾崎豊が大好きで、一昔前の硬派のような「クサイ」言動をよくとる明弘を健児は信頼していた。
さらにこの出来事は、恋愛とは程遠い生活をしていた健児にとって、初めての身近な恋愛となり、その年頃に誰でも感じる甘酸っぱい憧れを遅ればせながら健児にももたらした。
健児は学校と寄宿舎の周辺は白(はく)杖(じょう)を使って、校舎や寄宿舎の中は何も使わずに一人で歩行することが出来たが、頭の中に見取り図がインプットされていない、初めて行く場所では、中学部の頃から明弘にリードしてもらっていた。明弘は全く面倒臭がることもなく、その役目を五年間し続けた。明弘以外にも教師や親からリードされて歩くのが当たり前だったので、知らない場所を一人で歩くという必要も無く、ほとんどそういう経験なしに健児は十七年間生きてきた。
「もっと役に立つ情報は無いのかよ」
明弘の代わりに健児が不機嫌そうに言うと、
「背も高かった。健児より高いんじゃないかな。ヘアスタイルは短くて『スポーツマン』って感じ!」
加奈子はまた暢気な話しをし、健児には見えなくても明弘がさらにムッとした顔をしているのが分かった。
数分経って教室の前の扉が開いた。二年の時のホームルーム委員の友孝が「起立」と号令を掛け、四人は立ち上がった。礼をして着席した後、数秒の静寂が教室を包む。健児は、一番教卓に近い席で、飯坂の服から漂う煙草の匂いを嗅いでいた。
せっかちでお調子者の友孝が居心地の悪さを感じ、何か言おうとした瞬間、飯坂が教卓の両端に置いた両手で体を支える姿勢で口を開いた。
「はじめまして、飯坂高道です。さて、普通はこういう時には、黒板に名前を書くんだけど、盲学校ではどうしたらいいかな?」
飯坂は恥ずかしがるでもなく、堂々と言った。
弱視の生徒の中でも一番視力が弱い友孝が、
「普通に黒板に書いていいっすよ。ただ、だいたい一文字が十五センチ四方ぐらいの大きさでお願いします。俺が見えれば後の弱視連中は大丈夫っす。そして健児のために、他の先生は書きながら漢字の意味を話してくれたりもするっす」
馴れ馴れしいながらも、彼なりに気を使った口調で話した。
すると飯坂は座席表や出席簿と友孝の顔を交互に見ながら、
「えーと、中村友孝。そうか。それじゃ、やってみるか。『飯坂』の『いい』は『朝めし』の『飯』。『さか』は転げ落ちる『坂』。『高道』の『たか』は、『背が高い』の『高』。『みち』は『回り道』の『道』という字だ」
と言うと、だいたい十五センチ四方の大きさで男の教師のわりには優しい綺麗な字で黒板に書き、みんなに訊いた。
「どうだ、これで見えるか?」
健児以外は、「見える」と答え、健児もうなずいた。
「田岡…健児。どうだ、分かったか?」
急に名前を呼ばれたことに少し驚きながらも、
「全盲は漢字はなんとなく分かれば十分です」
健児は机に顔を向けながら答えた。間を置かず、
「ただ先生、俺たち高三なんだけど、『坂』の説明に『転げ落ちる』とか『道』に『回り道』はないんじゃないですか?」
友孝が冗談ぽく言うと、
「わざとだ。今の時期にそんなこと気にするくらい、受験がプレッシャーになってるならたいしたもんだけど、なってないだろう」
「なってません!」
やはり友孝が嬉しそうに言った。
「やっぱりな」
飯坂は笑いながら言ったあと、続けて名前の紹介と同じ要領で、ポイントを板書しながら自己紹介を続けた。
新任式で趣味だと言った音楽のことやサッカーのこと。音楽はジャズが好きなこと。盛岡高校の生徒は、優秀な生徒ばかりではなかったこと。弱かったが面白い連中ばっかりだったというサッカー部のこと。実家が県北部の一戸(いちのへ)という町であること。教員になる前に七年間、そこの役場職員だったこと。地元の県立高校をほとんどビリに近い成績で卒業し、大学も何の目的も無いままに名前は言わなかったが三流大学に入ったこと。まだ独身であること、などをゆっくりと丁寧に話した。
「さてと、何か質問があるかな」
待ってましたとばかりに、加奈子が手を挙げた。
「私もジャズが好きなんですけど、先生はどんなのを聴くんですか?」
加奈子がジャズを好きだなんて聞いたことも無い明弘をはじめとする男子軍が飽きれていると、
「佐藤加奈子、だな。ジャズは自由なとこ、んーと、指揮者や楽譜に縛られないとこが好きかな。まあ何でも好きけど、特にセロニアス・モンクっていうピアニストが好きだ。モンクは普通、美しくないって言われる外れた和音をわざと演奏に取り入れる人で、そう、俺の好きな言葉で『美は乱調にあり』っていうのがあるんだけど、音楽でそれを表現してくれた人だ。サッカーも自由だし、次に何が起こるか誰も想像がつかないって言うとこがジャズと似てっかも知れない」
明弘も黙っていられなくなったという感じで口を開いた。
「『美は乱調にあり』ってどういう意味ですか?」
「児玉明弘。んーと、これは主に大正時代に活躍した社会運動家、大杉栄(さかえ)の当時の国の体制を批判した言葉で、正しくは『諧調にもはや美は無い、美はただ乱調にある』だ。断っておくが俺は別に変わった主義を持っているわけじゃなくて、単純にこの言葉が好きなだけだ。意味は『皆が同じことを考え同じ行動をとること、整然としている事に真実も美しさも無い、皆がそれぞれ違うことを考え、自らの考えで行動をとるところに美しさがある』っていう意味かな」
「それじゃあ先生は、高校野球の開会式の『ザッザッ』ていう規則正しい選手の行進やきちんとした整列なんかは好きじゃないんですか?『青春』って感じで、俺は結構好きだけどな」
明弘らしい、どことなく考え方が古臭い質問だった。
「んなことはない。ただ、『きちんと』や『規則正しく』にも限度がある。限度を超えると軍隊の行進のように『きちんと』や『規則正しく』は無気味なものに変わる。スポーツマンの入場行進は好きだな。ただ、いかにも監督から押し付けられました、という感じのロボットのような行進は可哀相だと思う」
「『美は乱調にあり』か…、なんかカッコいいすね」
明弘が納得した様子で言った。
「で」
飯坂は続けた。
「それに少し関連してるんだけど、俺が担任になったということで、このクラスのルールを決めたいと思う。もちろん不満があったら言って欲しい」
四人が呆気にとられているうちに飯坂は続けた。
「まず一つ目。校則は守るのが原則だが、自分のポリシーで破ろうとする奴を俺は認める。ただし、人に迷惑を掛けることと危険なことは許さない」
「二つ目は俺の授業に限り居眠りは認める。居眠りされるのは教師にも責任があるからな。ただし、テストではもちろん手加減はしない」
「最後に、この通り俺はみんなを呼び捨てにする。その代わり、俺のことも呼び捨てなり、あだ名なりで呼んでくれて構わない」
「何か不満は?」
「飯坂先生が認めてくれてもカバ…じゃなくて、高田先生達は校則違反を許してくれないでしょう」
明弘が訊いた。
「当たり前だ。人によって許してくれたり、許してくれなかったりするのが世の中だ。ただし、弁解の手伝いぐらいはしてやる」
「あとは質問とか無いか?それじゃ、時間も無いしみんなのことは追々知っていくことにするか。最初のホームルームは終わりにして次の授業の準備をしなさい」
「起立」
友孝の号令に皆が立ち上がってから飯坂が言った。
「そうだ、大事なことを言うのを忘れていた。進路希望が決まっていない者。誰か分かるな。放課後に話をしよう」
「礼」
飯坂の印象は、加奈子だけは少し観点が違ったものの、明弘も友孝も一致して良かった。
「なんか、いい感じじゃない」
友孝がうれしそうに言うと、
「言うこと、納得させられたような気がする…」
明弘も同意した。
「私、セロニアス・モンク聴きたい。健児、ジャズ好きでしょ。CD持ってないの?」
急に不機嫌な顔になった明弘の気持ちも知らずに無邪気に加奈子が言うと、健児は、
「持ってるよ、四、五枚。貸してやるけど、たぶん訳分かんないぞ」
と答えた。
寄宿舎の部屋にはテレビが無い。健児は寄宿舎に入ってから、テレビを観る(聴く)機会がめっきり減り、いつも自由時間は地元のFMを聴いていた。
音楽は洋楽が好きだった。日本のポップスの「恋」や「夢」が綴られた歌詞に健児は共感できず、逆にすごく白けたものに感じられ、好きになれなかった。
ある日、FMから流れてきたマイルス・デイビスの「いつか王子様が」を聴いてからジャズが好きになった。それは小学二年の学習発表会で「白雪姫」の劇をやった時にその練習でよしお先生が何度も何度もピアノで弾いてくれた思い出の曲だった。ラジオからは「いつか王子様が」に続いて、「枯葉」が流れた。「枯葉」は当然秋の曲だったが、曲名を知らずに聴いたその時の健児はよしお先生を思い出していたこともあり、桜が散るシーンを想像した。曲が終わってから「枯葉」という題名を知り、「なるほど」と納得したが、健児にとっての「枯葉」はそれからも春の曲になった。
それ以降、ジャズ番組を欠かさず聴くようになり、知識もCDの数も増えていった。
今時の高校生の例に違わず、明弘の尾崎豊は別として、ヒップホップなどのJポップを好む明弘や友孝には「なんじゃこれ」といつも言われていた。健児は自分が高校生のくせにジャズなんかを好きなのは、明弘達のようにビジュアルから音楽に入っていけないせいでもあるし、単に性格がひねくれてるせいでもあるか、などと自分なりに分析したりもした。が、結局理屈ではなく、ムシャクシャしたときや、落ち込んだ時に、ジャズのアドリブを耳で追っていると、なぜか落ち着いたり、逆に興奮したりするのだった。モンクの不協和音のことは知っていたし、何となく虚しいような切ないような感じの音が好きだった。
健児は、飯坂に対して「盛岡高校」や「ジャズ」ということを含めて、何かしらの興味は感じていた。ただ、放課後の教師の呼び出しはやはり憂鬱なものに変わりは無い。
掃除を終えてみんなが寄宿舎に帰っても、健児は教室に残り、飯坂を待った。五分も待たせることなく、飯坂は教室に来た。
弱視の生徒はその見え方によって、明るいほうがいい者、暗めのほうが良く見える者、黒板を見るために単眼鏡という望遠鏡のようなものを使うため、ある程度離れたほうが全体像をつかみやすい者など様々なため、盲学校の教室の机は、整然と並ぶことがあまり無い。
普通科三年の教室もバラバラの机の配置だったが、全盲の健児の机は教師の声が聞こえやすいよう、教卓の真ん前にある。
その自分の席に健児が座り、飯坂は教卓の横にパイプイスを出して座った。
「みんなの進路希望は、樋口先生や高田先生から聞いた。で、春休みが終わったけど、まだ進路希望は決まらないか」
いきなり飯坂の話しは始まった。
「全く」
健児は相手の出方を探るように、わざとぶっきら棒に返事をした。
「進学か就職かも決まってないのか」
「先生、先生は知らないかもしれないけど、全盲の俺達には普通科卒業してすぐに就職出来る可能性なんて全く無いんですよ。あん摩、鍼灸の資格取って初めて就職希望って言える。進学だってこの学校の専攻科か、理療の教員養成課程の大学ぐらいしかない」
さらにぶっきら棒に言ったが、そんなことには全く構わず飯坂は落ち着いた口調で返した。
「それは今までは、ってことだろ。お前からは変わるよ。ただし、変えようとすれば、だけどな」
全く意味が分からなかった。
「どういうことすか?」
「前例が無いのと可能性が無いのとは全く違うだろ。物理的に無理なことは別にして、人間に不可能なことは無い。詭弁だと思うかもしれないが、俺はそう思っている」
「詭弁だ」と健児は腹立たしさすら感じた。
飯坂は続けた。
「俺は小学生の頃、プロのサッカー選手になりたかったけど、なれなかった。もちろん才能は無かった。でもなれなかったのは才能のせいじゃない、努力が足りなかったせいなんだ。もしかしたら俺程度の才能でも、死に物狂いの努力をしてJリーガーになった奴がいるかもしれない。俺は、いつもそう思ってる」
やはり腑に落ちないが、押される形で健児が聞いていると飯坂が少し語気を強めて続けた。
「全盲というハンディキャップは、どうしようもない事実だ。確かに無理なこともたくさんあるだろう。ただお前がさっき言ったことは違う。これまではそうだっただけで、お前からは違う」
健児にとって初めて聞く話だった。
これまで健児の周りの大人は、言い方は様々でも結局は「現実を見ろ」という意味のことを言った。
唖然としていると再度落ち着いた口調で飯坂は続けた。
「お前たちが考えた進路に向かって、一緒になってそれを突破しようとするのが俺の仕事だ。人生の大事な選択だからじっくりと考えろ。ただし、早ければ早いほどいい。その分、助走がたくさん取れるからな」
「以上、それじゃ気を付けて寄宿舎に帰れよ」
そう言うと、納得しない表情で返事もせずに座っている健児を残して、飯坂はさっさと教室を出て行った。
寄宿舎に帰ろうと校門を出る手前で健児は思い出の桜の木に触れた。枝のあちこちに五、六粒ずつまとまって付いているつぼみを一つ一つの大小や堅さを親指と人差し指で優しくつまむようにして確かめながら、その感触をひととき楽しんだ。
寄宿舎は比較的交通量が多い道路をはさんで校舎の反対側にあり、その道路を渡るための信号を含めて二百メートル位の道のりのところにある。
白杖を振って歩きながら、
――「早ければ早いほどいい」か、結局カバゴンと同じことを言うな」
と健児は思い、さらに軽く舌打ちをした。
曇り空のせいで、寄宿舎の部屋は薄暗くなっていた。全盲の人には暗くても明かりを点けない人もいる。もちろん必要がないからだ。家では「いるのか、いないか分からないから電気を点けなさい」と親に言われるので何となく点けていたが、寄宿舎では明かりを点けなかった。しかも一人部屋になった今は、もちろんポスターも無ければカレンダーも無い、文字通り殺風景な部屋になっていた。
明かりを点ける代わりに、部屋に戻るとすぐに校舎への持ち込みが禁止されている携帯電話でメールチェックをするのが、健児の習慣になっている。
携帯電話は音訓の多少の読み間違いはあるものの、メールを音声で読み上げてくれる機種が出てから、全盲の生徒にとっては必需品になっていて、高等部以上の全盲の生徒はだいたい同じような機種を持っていた。
ここ数年で携帯電話に限らず、いろいろな物のバリアフリー化が進んできたが、特に目覚しいのがパソコンのソフトと周辺機器だ。ホームページまで読み上げてくれる音声ディスプレイソフトや点字ディスプレイ、点字プリンターなどがあっという間に普及し、パソコンに関しては、全盲のハンディキャップがほとんど無い、とまで言われるようになってきている。
健児は授業中、ノート代わりにノートパソコンと点字ディスプレイを使っており、クラスメイトに限らず、全校生徒の中でも一番パソコンに精通していて、パソコンについて質問をしに来る教師がいる程だった。
メールは三通来ていた。一通は今朝、寄宿舎の駐車場で別れたばかりの母親から。
「母さんはやっぱり盲学校の先生になるのがいいと思うよ」
春休み中に何度か話し合った進路についてのダメ押しメールで、読むなり健児は「チッ」とまた軽く舌打ちをした。
もう一通は隣の部屋にいる明弘から。
「面談どうだった?教えろ」
やはり、飯坂が気になっているようだった。
そしてもう一通は深田朱実からだった。
「飯坂先生が行ったでしょ。いい先生だよ。となりのクラスの担任だったけど、一年の時に現代社会を教わった。授業も面白いし、すごくみんなから人気があった。みんなは『タカッチ』って呼んでたよ。タカッチの様子もあとで教えてね」
メールを読み上げる音声は抑揚のない女性の声で、当然どれも同じ声だったが、朱実のそれだけは何となく甘みのある別の声に健児には聞こえた。
すぐに返信せず、携帯を閉じた健児は、人の気配を気にしながら机の引き出しの奥から煙草と百円ライター、ベッドの下からインスタントコーヒーのビンを持ってベランダに行き、しゃがんで煙草に火を点けた。煙草は二年の時に明弘から勧められて吸ったのが最初だった。友孝も煙草を吸う。
全盲の人達の人の気配を感じる能力は、健常者からみたら忍者並みだ。明弘は一度、寄宿舎の指導員に見つかって校長室で注意処分を受けたことがあったが、健児はなかった。一度、寄宿舎の担当指導員の加藤が吸った直後に部屋に来てバレそうになったが、セーフだった。
タール一ミリグラムのメンソールを深く三度吸うと水が入ったインスタントコーヒーのビンに入れて消し、蓋を締めた。
制服のまま隣の明弘の部屋に行った。
寄宿舎は基本的に二人部屋だったが、生徒の減少で部屋数に余裕が出てきたこともあり、受験を控える高等部以上の三年生は一人部屋になっていた。
健児も三月までルームメイトがいるのが当たり前だったから自分の部屋に居心地の悪さを感じていた。
「お前、煙草臭え。俺が吸ったと思われるだろ」
明弘はそう言うと、消臭スプレーを健児に向かって吹いた。
「面談どうだった?教えろ」
さらに明弘はメールの文面と全く同じことを言った。部屋にはやはり尾崎豊の曲が流れている。
同じく一人部屋の居心地の悪さを感じていたのだろう、健児が明弘の部屋に来た気配を察して、すぐにその隣の部屋の友孝も入ってきて言った。
「どうだった?」
「カバゴンと同じことを言われた。『出来るだけ早く進路希望を決めろ』だって」
「なんだ、それだけか。つまんねえ面談だな」
明弘はそう言ったあと、ポテトチップスを一口食べて健児と友孝にもすすめた。その袋に手を入れながら友孝が言った。
「でもなんか今日の話は説得力があったような気がするけどな」
明弘もうれしそうな口調で、
「そうだよな。俺もそんな感じがした」
と言い、ポテトチップスの袋をみんなが取り出しやすいように大きく開いた。
「そういえば…」
少し躊躇してから健児が続けた。
「盛高からのメールでは、向こうで『タカッチ』って呼ばれてたらしい。あと、いい先生だって言ってた」
「おー!朱実ちゃん情報だな。いいなあ健児は。で、あとは何かなかった?」
友孝はそう言いながら、勝手に明弘のコップを健児に持たせ、「どうぞどうぞ」とペットボトルのコーラを注いだ。
「他には何もないな」
健児はグイッと一気に飲んだ。
「そっか、やっぱりいい先生なんだ。こいつは春から縁起がいいねえ。四人で過ごす最後の一年だから、楽しいに越したことはねえな」
明弘は、「らしい」古臭いことを言いながら、携帯のメールを打ち始めた。女子棟にいる加奈子にこの情報を送ろうとしているのだ。それを合図にしたかのように他の二人はそれぞれの部屋に戻った。
戻るなり健児は、飯坂が自分たちの担任になったことを朱実にメールで伝えた。
「みんなは、きにいったみたい。かなこなんか『かっこいい』っておちつきがなくなってそわそわしてる。そのぶん、あきひろがすこしきげんがわるいけど」
健児の携帯電話は音声ガイダンスによる漢字変換も可能だったが、健児は面倒臭がり、相手の読み易さなど考えずにいつもひらがなだけで打っていた。
「ルックスもいいけど、話が面白いよ。なんか説得力があるんだ」
「まだいちにちだけだからおれにはわからないけど、こうこうせいかつさいごのいちねん、たのしいほうがいいな」
「そうだね。私はとりあえず陸上頑張って、終わったら次は勉強だな」
「おれは…」
と打とうとして次が続かなかった。
「それじゃ、また」
「またね」
携帯を閉じて、
「頑張る、か…」
健児は呟いた。
翌朝は、朝のホームルームから一時間目のロングホームルームまで、ぶっ続けで前日の続きの自己紹介の会になった。
飯坂は出席をとる時に、やはり昨日の宣言どおり、「明弘」、「健児」、「友孝」、「加奈子」と呼んだ。それにテンポを合わせるように友孝が続けて、
「タカッチ!」
と呼ぶと、飯坂は驚いて、しかしうれしそうに言った。
「おい、だれか盛高のスパイがいるな。誰だ」
「健児っす。これですよ、これ」
友孝がすかさず、右手の親指を動かしメールを打つ仕草をしながら言った。
「健児、誰とメル友なんだ?」
健児はしぶしぶ、
「深田朱実…さん…」
と答えると、飯坂は「ほー!」と声を出したあと言った。
「深田は陸上部で短距離をやってる。結構速いはずだ。勉強も盛高で片手に入るほどの秀才だぞ。勉強が出来るからっていうわけじゃないけど、いいメル友だ」
前段の情報は本人から聞いていたが、もう一つの情報は初耳だった。盛高だから頭がいいんだろうな、とは思っていたが、盛高で五番以内ってことは東大にも入れるってことか、と健児は単純に想像し、また少し朱実を遠く感じた。
一通り生徒の自己紹介が終わると、飯坂は言った。
「よし、それじゃあ、記念すべき最初のロングホームルームということで、残りの十分間は俺の所信表明演説をする」
「なんすか、それ」
友孝が訊くと、
「お前、一年の時の現代社会で何勉強してた。就任したばかりの総理大臣が自分の今後の政治方針を国会で演説するのが、所信表明演説だ」
と飯坂が答えた。すかさず健児が、
「現社で『所信表明演説』は習わないよ」
と返すと飯坂は、
「さすが健児。まあいいから、俺の演説を聞け。退屈したら寝ても構わないし、質問も受け付ける」
と言い、軽く咳払いしてから、「演説」と言ったのにいきなり質問から切り出した。
「なぜお前たちは勉強をするんだ。明弘」
突然の指名に明弘はうろたえながらも「んー」と唸ったあと、
「テストのため…ですか?」
と答えた。
「加奈子はどう思う」
加奈子も少し考えてから真剣な声で答えた。
「人間って子供の頃は、人間じゃなくって、いろんなことを学んで大人になって初めて人間になるって、前に聞いたことがあります。だから勉強するんじゃないんですか」
健児は「つまんない答えだけど、そんなとこかな」と思った。
「うん。質問しといて悪いけど、この質問に正解はない。これから言うのはあくまで俺の個人的意見だ」
一度は誰もが抱く疑問。特に高校の勉強となると一段と深まる疑問。「こんなややこしい勉強が将来何の役に立つんだ」というこの単純だがなかなか答えが見つからない疑問は、勉強に身が入らない健児にとっての一つのハードルでもあり、逆に都合のいい言い訳でもあった。その答え、いやヒントを飯坂が話そうとしている。健児は飯坂の次の言葉を待った。
「中学までの勉強は加奈子が言ったことに近いような気がする。それはだいたいが大人になってからの実生活に何かしら役立つからだ。ただ高校からの勉強は違う。これは明弘の意見に近い。まれに勉強が好きだ、という奴がいる。盛高にはそんなタイプのやつもいた。だけどやっぱり高校生全体からみればごくごく少数で、ほとんどのやつは勉強なんかできればしたくないと思っている。みんなもそうだろ?高校や大学の頃の俺もそうだった。
俺は高校の勉強は『手段』だと思っている。自分のこれからの生き方にそれが必要な時は頑張ればいいし、必要無いときは手を抜けばいい。例えばセンター試験を受けるなら、受験科目は必死に頑張らなきゃいけないし、推薦入試を目指すなら内申書を意識して校内の試験を頑張らなきゃいけない。逆に就職したいやつはその就職に支障がない程度の成績を残せばいいし、極端な話、赤点ギリギリで卒業だけを目指せばいい。むしろ勉強なんかしてるよりも、就職に向けてアルバイトとかの社会勉強でもしてたほうが有意義な場合だってあるだろう」
飯坂は続けた。
「ただ、日本の社会の大部分は学歴社会だ。多少崩れてきているような気がするが、全般的には変わらない。成績がいい者が優遇されるシステムになっている。そんな学歴社会を生きていくんだったら勉強はその手段と割り切ってやるしかない。学歴社会からおさらばして、手に職を付けるなりして生きていくんだったら、高校の勉強はほとんど役に立たない。無駄だ。違うことに時間を使ったほうが利口だ」
健児達は少なからず圧倒されていた。特に健児は目の前の教師が言った「勉強が無駄だ」と言う言葉に、驚きを感じていた。が、湧き上がった疑問を少し強い口調でぶつけた。
「手段って言われたって、そんな簡単に割り切ってやれるわけないよ」
飯坂は健児が喰いついてきたことを喜ぶように答えた。
「その通り。そんな簡単に割り切れるもんじゃない。で、つまらない勉強を手段としてやるために必要なのが『エネルギー』だと俺は思う。逆にこの学歴社会の中で、勉強から思い切って手を引くのにもエネルギーがいる。そしてそのエネルギー源になるのが『夢』だ」
「夢」という言葉に健児は瞬時に嫌悪感を覚えた。
「夢じゃちょっとクサイから将来の目標とでも言っておくか。だから早く進路希望を決めなくちゃいけない。早く準備が出来るからな。そしてここですごく大事なのが、『自分で』決めることだ。自分で決めれば、あとで失敗しても後悔しない、いや納得した後悔が出来る」
まるで健児の嫌悪感を察したかのように飯坂が言葉を言い換えながら言った。
「健児以外は進路希望が決まっているようだが、本当にそれでいいのか、もう一度考えてみなさい。きちんと自分で決めているか、確認してみなさい。そして自分がこれからの一年間をどう過ごせばいいのか考えなさい。健児は速い助走ができるように、じっくりと筋トレをしなさい。
とにかくみんなたくさん悩め。悩まない青春時代を送った人間はろくな大人になれない。勉強なんかよりずっと大事だ。俺はみんなが決めたそのゴール、いや駅伝でいえば中継点に向けて、一年間必死に伴走する」
健児への言葉は、健児にだけは意味が分かった。
「以上、わたくしの所信表明演説を終わります。何かご質問は?」
誰も言葉を返せずにいたらちょうどチャイムが鳴った。
明弘と友孝は専攻科に進もうと思っていた。二人とも背は健児より低かったが、それなりに体力はあり、どちらかといえば社交的な性格だったので、サービス業であるあん摩が向いている、と本人たちも健児も思っていた。二人とも少しずつ視野が狭くなる進行性の障害だったので、万が一、将来全盲になったときのことも考えての選択だった。
加奈子は就職希望だった。進行性ではないし、眼鏡さえかければ通常の生活にあまり支障がない。あくまでも本採用を探すが、パートの就職口だったら見付けられそうだ、とカバゴンからも言われていた。加奈子はできればファッション系の店で働きたかった。
だが、みんなこの日からもう一度自分の将来について考え出した。
その日、寄宿舎に帰ると、やはりメールが一通来ていた。朱実からだった。
朱実からのメールは週に二、三回届き、その度に何通かやり取りをする。内容はごく普通で、それぞれの学校の様子だったり、友達のこと、好きな音楽やタレントのことだったりした。お互いの友達の名前が出てくることもあり、朱実は交流で顔も知っているうえに、健児とのメールのやりとりで健児のクラスメイトの大体の性格まで知っていた。
朱実は盲学校の生活に興味を持っていろいろなことを訊いてきた。点字のこと、白杖のこと、パソコンのこと。時には健児の目の障害についても詳しく訊いてきたこともあった。普通はあまり他人に訊かれることが無い話題だったが、メールでの朱実の質問の仕方には、何気ない心配りが感じられ、健児もあまり気にすることなく話すことができた。
逆に健児は盛高の授業やクラブのことはもちろんだが、朱実を通じて、今の普通の高校生の感じている世界を知ろうとしていた。朱実はそれに対して誠実に、丁寧に、そして親しげに答えてくれていた。
健児はメールのやり取りの中で少なくとも朱実に、これまでの誰にも感じたことのない「好感」を持っていたが、朱実はおそらく自分を通じて、障害者について学ぼうとしているだけだろうと思っていたし、その考えは、健児ならではの一種の自己防衛反応でもあった。
アドレスをもらった日に、「俺のアドレスです」と返信して以降、健児のほうから最初にメールをすることは今まで一度も無かった。馴れ馴れしくしたくなかったのも理由の一つだが、勉強でも遊びでも周囲が準備して、それを与えられてから自分が動くということが多いこれまでの盲学校や家庭での生活の中で、自然に受身の姿勢が健児には身に付いてしまっていた。進路に向かって一歩踏み出せないのも、それが大きな一つの原因になっていることを健児自身も自覚をしていた。
今日は飯坂から朱実の成績の話を聞いたせいか、これまで以上にメールに消極的だった。
「タカッチの二日目はどうでしたか?こちらでは、タカッチがいない、と泣く(まねをする)友達もいます(笑)」
「あさからしょしんひょうめいえんぜつをした。こうこうのべんきょうはしゅだんだ、といってた。それから、ともたかが「たかっち」ってよんだら、もりこうにめるともがいることがばれて、そっちのなまえをいわされた。すごいしゅうさいだっていってた」
朱実の返事は、クラブが終わった六時過ぎに届いた。
「全然秀才じゃないよ。そっか、メル友なのバレたのか。でもタカッチらしいね。その演説私も聞いたよ。それから私は何となく勉強するようになった。私ね、京都の大学に行きたいんだ」
具体的な進路の話をしたのは初めてだった。
「きょうとだいがく?すごいね、そうぞうもつかないな」
「とにかく京都の大学に行きたいの。中学生の時に家族旅行で行ってから、ずっとあそこで学生生活を送りたいと思ってる。健児君は?」
健児は一年の時に修学旅行で行った京都を思い出していた。
盛岡盲学校の修学旅行は、生徒数が少ない関係で、三年に一度行われる。盲学校という特殊性から、金閣寺のように見なければ分かりにくい名所には寄らず、中に入ってみたり、触れてみたりしながら、その広さや建物の質感などが体験できる二条城や清水寺、太秦映画村などに行った。一日は大阪まで足を延ばし、ユニバーサルスタジオジャパンにも行った。
健児は歩きっぱなしで退屈することも多かったが、二日目の早朝に京都駅前のホテルから明弘と一緒に抜け出し、散歩がてら行った西本願寺が印象に残っていた。いや、建物自体ではなく、寺の中から聞こえる朝のおつとめの読経の声、玄関先に水を撒く音、行き交う人たちの上品な言葉、早朝の街の静かだけれど不思議と活気を感じる雰囲気、何よりも感じたことが無いはずなのに何故か落ち着く独特の空気が強く記憶に刻み込まれていた。
もう一度、朱実のメールを読み返してから打ち出した。
「おれはまだわかんない。なにがしたいのか、なにができるのか。もうすぐ18になるのになさけないけど。たかっちにはあたまのきんとれしろっていわれた」
「頭の筋トレか、それもタカッチらしいね。でも交流の時、加奈子ちゃんが言ってたよ、健児君は盲学校で十年に一人の秀才だって」
「じゅうねんにひとりはおおげさだし、もうがっこうのじゅうねんぶんのにんずうっていっても、もりこうのいちがくねんのなんぶんのいちだろう。それにがっこうぜんたいのれべるがちがいすぎる」
少しふて腐れ気味のメールだったかな、と健児が後悔していると少しだけ間を置いて返事が届いた。
「招待状(?) 四月二十二日(土)に運動公園の陸上競技場で高総体の地区予選があります。私のたぶん高校生活最後のレースです。健児君に応援に来て欲しい。ぜひ来てください。」
つづく
第23回さきがけ文学賞選奨受賞作(2006年)
2007年ソニー・デジタルエンタテインメントより電子書籍発行 iBooks、Kindle、コミックシーモア等から販売
現在の著作権は著者に帰属