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鈴虫リサイタル 【小説】
洗い物を終えたミサが、キッチンから出てくるのを横目で捉えたタカオは、テレビのスイッチを切り、ソファーから立ち上がった。
「行くか。」「うん。」
タカオはスニーカーを足にひっかけると、バレーボールを小脇に挟み玄関を出る。途端、すごい数の鈴虫の声がぶつかってきた。隣の家のおっさんが、捕まえて飼っていた鈴虫があまりに増えすぎたから庭に放した、と何年か前に言っていたが、それから年々鈴虫の声が大きくなっている気がする。数匹だったらそれは秋の風流だが、こう大勢で鳴かれてはただの騒音だ。 トントン、と爪先を地面に打ちつけ、スニーカーに足を押し込んでいると、ミサがジャージを羽織りながら出てきた。
「結構涼しくなってきたね。」
「そうか?まだそんなの着たら暑いだろ。」「タカオくんは代謝が良すぎなんだよ。」
ミサが屈伸を始めた横で、ボールを指先でくるくると回す。まだ片手では出来ないが、バレーボールを買った頃に比べれば、だいぶうまくなった。ミサに見せようと、彼女の方を見ると軽く睨まれた。バレーボールを地面に置き、いそいそと自分もストレッチを始める。もう高校生のように、そのままにはしゃいで、怪我しないでいられる体でないのだ。
タカオより先にストレッチを終えると、ミサはジャージを脱いだ。
「暑くなったろ。」
しゃがんで足を伸ばしながら、ほれ見たことかと、ジャージを畳む彼女に得意になって言う。「調節が大事なの。冷えは女の天敵なんだから。」
そう答えるミサの言葉尻が滲んだ気がして、彼女の顔を見あげる。 ジャージを玄関ポーチに置き、こちらを振り返った彼女は、眉尻を下げて微笑んでいた。 笑っていることにホッとする。
「さ、早くやろ、汗が冷えちゃう。」 タカオが立ち上がると、ミサが白いボールを投げてよこした。
ポーン。
その動作にピアノの音が重なる。たぶん、ド。 この時間帯になるとお隣さんから、いつも聞こえてくるのだ。毎晩律儀に音階を順番に弾く練習からはじめているようだった。
ミサにボールを放り、ラリーを始める。 ポーンポーンと球が、ピアノの音と共に、二人の間を行き来する。
白い玉が街灯に照らされて、夜空の黒に映えている。見やすさを考えて、白色にして良かった。
ミサは球技が得意だ、器用なのだろう。 彼女にはじかれた球は、一直線にタカオの腕に吸い込まれるように落ちてくる。それを返すだけなのに、始めた頃、タカオはあちこちにボールを飛ばしていた。ボールを散らせる自分と、それを生真面目に走り回って返す彼女は、はたからみたら、揺さぶりをかける監督と生徒のように写っていただろう。今は少しマシになって、時折、明後日の方向に飛ばすだけだ。 明後日に飛ばした球を、彼女が「ちょっと!」と、笑いながら追いかけ、タカオのもとに届けると、満足そうにまた笑う。
「ん?」
ふと、ピアノの音が耳についた。聞き覚えのあるメロディだ。 誰が弾いているのか、たどたどしいピアノは、最近になってようやく、曲として聞けるようになってきた。
「これ、なんの曲だっけ。」「虫のこえじゃない?」「あー、それだ。チンチロチンチロってやつ。」「そういえば、隣のチカちゃん、保育士になるんだって。」 だから練習しているのか、とうなずく。 春から聞こえるようになったピアノの謎が解けた。外に出だしたから、聞こえるようになったわけじゃなかったのか。「だんだん上手になってるよね。」
上手どころか、もはや、虫達と共にリサイタルを繰り広げている。
「あの親子、鈴虫好きすぎるだろ。」
ミサがふふ、と笑った。 おっさんの放した鈴虫の話は彼女も知っている。
「良いじゃん賑やかで。少なくともあと一年以上は、ピアノが上達していくのが聞けるよ。」 タカオはミサからきたパスをそのまま、両手で受け取った。
「まあな。そろそろ戻るか。」
「うん。」
ジャージを拾い上げたミサが、あ!と声を上げ、玄関の前で立ち止まった。
「ん?」
「そういえば、この前ホームセンターでバトミントン売ってるの見てね、タカオくんとやりたいなって思ったの。今度バトミントンやらない?」
「………じゃあ、また仕事帰りにスポーツ屋が開いてたら買ってくるよ。」
「ほんと?」 嬉しい!と笑う彼女の眉は下がっていなかった。 鈴虫の伴奏付き大合唱を背に二人、玄関へと入る。 扉を閉めても全然聞こえて、タカオは思わず吹き出した。 部屋にいる時は認識出来ないほど、慣らされていたらしい。 確かに賑やかで良いかもしれない、と思った。
一投稿目は、人生でほとんど初めて小説を書いて、父との思い出も詰まったこの作品を掲載させていただきます。いつか、思い出がどんなだったかも、皆さんにお届けできたらと思います。
これからどうぞよろしくお願いします!