「すべてが見えてしまう」ということの地獄 黒沢清監督『Cloud クラウド』をめぐっての雑考
<ネタバレありで書きますので、気になる方は鑑賞後にお読みください>
黒沢清監督が描く、菅田将暉が主演の映画『Cloud クラウド』は、これぞ黒沢清節と思わせるような作品であると同時に、これまでの作品とは明らかに異なる「恐怖」を主題としている。この恐怖は、『回路』や『叫』に見られるようなホラーものではなく、どちらかというと『CURE』や『カリスマ』の系譜にある恐怖といえよう。
だとしても、『Cloud クラウド』に描かれている恐怖は、『CURE』とも『カリスマ』とも明らかに異なる恐怖である。それゆえ、今回の作品に関していえば、鑑賞後の違和感は正直隠しきれなかったのだが、しかしこの違和感にこそ本作品のポイントがあるのだと思う。
この違和感とは、もしかしたら現代における「恐怖」のあり方自体が変容していることを意味しているのかもしれない。確かに『CURE』の萩原聖人演じる猟奇的殺人者、間宮の恐怖も、『カリスマ』における、中心なるものをめぐって争う対立構造、それを不可避的に生み出してしまう怪物=カリスマの恐怖も、それらが作られた時代背景があり、その時代だからこそ受け止められる恐怖というべきものである。
本作品で見られる恐怖も、まさに現代社会における恐怖を描いていることには違いないのたが、真に現代のわれわれのあり方に迫りすぎているゆえに恐ろしいのであり、その恐怖が、恐怖といってよい類のものなのかわからないゆえに違和感が残るのである。
あらすじを紹介しておこう。このあらすじだけ見ると、黒沢清は現代の見えない集団の狂気、憎悪、ネット社会の闇、悪意、それら暴力の輪と、向けられた刃が、普通に生きている人間の日常を脅かすものになる。そういったものを描こうとしているように思える。
だが、私がこの映画で受け取った恐怖とは、このようなものではなかった。あらすじのような内容であれば、それを描くのは黒沢清じゃなくてもよいはずである。
ずばり言おう。私がこの『Cloud クラウド』で受け止めた恐怖とは、サスペンスやホラーの常套手段である「見えない恐怖」ではない。その反対で「すべてが見えてしまっていることの恐怖」、これである。
それは、まさに滑稽なほどまでにすべてが明かるみになっていることであり、闇が闇ではない恐怖、すべてが明かされていることで、想像力が奪われてしまうことの恐怖である。
そしてそれは、もしその「仕掛け」自体を映画に導入してしまえば、映画はどうなってしまうのか、という黒沢清監督自身の恐怖であったはずであり、同時に、そうすることで自ずと浮き彫りになってしまうのは、われわれを取り巻く現実と虚構を分けていた境界線の消失である。
映画は虚構たるゆえに映画である。だが、本作品が描いている世界は、これまでの黒沢作品自体のパロディとも言われているくらいに、抽象度の高い作品であるにも関わらず、それゆえにというべきか、リアルな現実に近接してしまっている。
いや、逆である。これまでは、映画の方がいかに現実に近接しているかが問われていた。しかしこの映画は、むしろ現実が映画の方に近接していることを明るみにしてしまっている。
これはもしかしたら、映画の危機でもあり、黒沢清自身の危機でもあり、われわれ自身の危機でもあるかもしれない。黒沢清は、ここまで意図していただろうか。もしそれが意図的でないにしても、もはや時代のベクトルがそのような「逆方向」へと動きだしてしまっているのだとすれば、それこそ映画の終わりで主人公の吉井(菅田将暉)が呟いていたように、この現実は「地獄の入口」である。
どういうことか、順番に説明していこう。
この映画は、上記にもあるように、だいたいがあらすじの通り進んでいく。これ自体が、じつは黒沢清作品においては珍しい。過去の作品は、物語の筋を追っていくことさえも難しいものが多かったからだ。
主人公の吉井は二つの顔を持つ。一つは町のクリーニング工場で働く、吉井という現実社会での顔であり、もう一つは「ラーテル」というハンドルネームを使用した転売ヤーとしてのネット上での顔である。むろん転売ヤーとして働く顔は、PCとにらめっこし、目をつけた商品を買い漁る現実社会の吉井でもあり、吉井に転売ヤーとしてのきっかけを作ってくれた村岡という先輩とのリアルな人間関係もある。
主人公の吉井は、露骨なまでに他者に無頓着だ。もっといえば「生」ということにまで無頓着な気がする。彼は誰に従うことなく自由に金を稼ぎ、彼女の秋子が好きな物が買える生活をしたいとは思っている。ただ彼自身は、社会で成り上り、地位や名誉を得たい、派手な暮らしをしたい、そんな肉食系にありがちな野心は少しも持っていない。ゲームのように転売ヤーをやっているようにさえ思える。
吉井は上記のような意識や関心のなさゆえに、いつの間にか他者の恨みをかってしまっているということにも気づかない。吉井の周囲ではたびたび不穏なことが起きている。アパートの階段にネズミの死骸が捨てられていたり、バイクで帰宅時に鉄線が張られていて横転してしまったりなどがあった。吉井ににじりよる恐怖、不可解な出来事の連続が、映画全体の緊張感を作っていく。
最初のうちは小さなものだったのかもしれない。しかし、知らず知らずのうちに、吉井と関係を持っていた人間の心を抉っていることがわかり、やがてその小さな恨みは、積もりに積もり、あらゆる人間から、憎悪としての「刃」を向けられることになる。
吉井に向けられる「刃」は、現実社会における人間関係からのものと、「ラーテル」の詐欺まがいな転売で被害を受けたネット民からのものである。
そして、前者において、まず最初に吉井に刃を向けたものが、クリーニング工場の上司、滝本(荒川良々)である。滝本は、吉井に目をかけていた。社員にし、青年部長にしたいと考えていたようだ。しかし吉井の返答は素っ気ない。滝本はそのうち吉井の気持ちも変わるだろうくらいに思っていた。
だが、吉井は転売で大金を手にしたのちに、クリーニング工場をあっさりと退職してしまうのである。滝本は引き止めたく吉井の自宅も訪れるのだが、吉井は居留守を使う。滝本は、彼女の秋子(古川琴音)と湖畔の一軒家に引っ越した吉井を追いかける。
後者のネット民の刃は、借金におわれた三宅(岡山天音)が、ネット民によるラーテルへの復讐したい欲望を、殺しによって、みなの思いを代行してやろうというもので、いわば匿名のネット民を代表する存在だ。
その二軸の刃が、吉井本人に向かい交差する瞬間がある。それが映画中盤でやってくる一つの山場で、私はこのショットこそが『Cloud クラウド』における最も驚愕のショットだと考える。
退屈な生活が不満で出て行ってしまった秋子や、バイトとして雇っていた佐野(奥平大兼)を解雇したあと、一軒家で一人となってしまい、仕事をしていた吉井は、裏口での物音にはっとなる。なにかと思って一階に降りて、裏口を確認する。施錠が壊れてしまったか、風でドアが音を立てていただけであった。鉄線をぐるぐるにしてドアを強引に閉める。すると、ドアのガラスに白頭巾をかぶった男の顔がにょきっと現れる。思わず叫びたくなるような演出である。叫ぶ吉井。リビングを振り返る。
すると観客は振り返る吉井の前に何者かが立っている後ろ姿を見つけ、再び身をのけぞるような思いをする。家の中に立っていたのは、なぜかクリーニング工場の滝本であった。手にはライフル銃。これも頭が「?」になる。銃口を向けられた吉井も一体なぜ?となる。滝本は、吉井が会社を辞め、居留守を使ったからだという。そんなことで? なんでこうなる? と吉井は動揺しながら、逃げようとする。
リビングという日常の中に入り込んだ恐怖、不可解、不条理なまでに突然に向けられる刃(=ライフル銃)、この一連の流れをカット割りせず、一つのショットにおさめた技術には脱帽するしかない。
そして、白い被り物の人間も家に侵入してくる。これは、ネット民の思いを代行する、匿名の襲撃者だ。追い詰められた吉井。だが、滝本が放った銃が、エスプレッソマシーンに当たりマシーンがものすごい蒸気の音を立てて倒れたとき、吉井は隙をみてなんとか家を脱出する。
そこからだ。上記のショットが見られるまでにあったサスペンス的な緊張感が一気に失われ、とたんにコメディ要素さえ感じるくらいの逃走劇になるのである。
さらに、私の記憶が間違っていなければ、吉井が自宅で滝本に銃口を向けられたのは夜中だった気がする。この時の時間が夜であったことは、黒沢清監督自身がインタビューで述べているでの間違いない。しかし、その後自宅を飛び出す時には、外はもう「明るい」のである。(シーンを混同していたらすみません・・)
逃亡の際に、吉井を殺したいという複数の人間が次々と集まってきて合流し、吉井包囲網が開始されるのだが、この逃亡のドタバタ感が、ヒッチコック作品や、古きよきB級アクション映画を思わせるのだ。これはB級映画を愛する黒沢清のオマージュであり、これらの突飛な演出や、リアリティの欠如した粗い設定、ご都合主義的な展開に関していえば、これはもはや意図的だとしか思えない。
しかしポイントはまさにここである。この緊張から緩和への転換が、これまでの黒沢作品には見られなかった違和感なのである。そしてこの逃走劇の末、吉井は集団によって捉えられてしまい、廃墟となった工場へと拉致される。体を縛られ動けない状態になり、吉井を嬲り殺す様子を動画で撮影しようという展開になる。
だがここで、解雇したはずのアルバイトの佐野が、じつは闇組織に関係する人間だったということで拳銃を入手しており、なぜか雇い主吉井の救出に向かう。この動機も映画では説明されていない。佐野はただ、アシスタントですから、と言う。
佐野の存在の意味は謎なのだが、ここには重要な意味が込められている気もする。あえていえば、争いの調停役というべき存在か。
吉井を狙う集団は言っても素人である。素人の殺意、暴力こそが問題とされるわけだが、暴力にはプロの暴力で成敗する、そんな感じだろうか。そしてこの設定自体は、銃撃戦のリアリティをもたらすのであるが、これもギャング映画的な要素が差し込まれることで、むしろ現実におけるリアリティの方がが次第に浮き彫りになってくる(実際に現実世界の争いごとを解決するのは国家権力=暴力装置である)。
その佐野が吉井の救出に入ってからは、吉井と佐野、それから吉井を狙う集団らの激しい銃撃戦、それも互いが工場に散らばって身を隠し、吉井と佐野が一人づつ順番に撃ち殺していき、最後は、大ボス上司・滝本と工場の外で激しい撃ち合いを行う。
ここまでの逃走劇、ガンアクションの中に、クルマや銃といったアイテム、ご都合主義がさまざまに出てくる。
渦巻くネット民の憎悪というものも、白頭巾をかぶった男という実体を持った人間として、目に見える存在となってしまったし、この白頭巾の男は、どこか間抜けな感じだ。
もはや明らかであろう。黒沢清は最初こそ、自身が得意とするサスペンスをやっていたのだが、上記の滝本がリビングで銃を構えていたショットを境に、アクション映画をやりたかったのである。黒沢監督自身もそのことについて述べている(参照:https://moviewalker.jp/news/article/1214995/)。
黒沢清監督は、この日本で本格的なガンアクションをやるうえで、リアリティにこだわったという趣旨のことを述べているが、このサスペンスとアクションが入り混じった展開は、これまでの黒沢清作品自体のパロディになっているだけでなく、アクション映画のオマージュ、パロディにもなっており、「これは映画ですよ」と表明しているようなものである。
それゆえ、激しい銃撃戦後、吉井のクレジットカードを手に入れるために近づいてきた秋子を、吉井の目の前で佐野が撃ち殺すという衝撃の展開をむかえるわけだが、このあたりももはや驚きはない。
よくわからない、リアリティがない、感情移入できないなどというレビューも見かけるのだが、それはその通りなのである。黒沢清は、リアリティのピークとしては、滝本が銃口を向けるショットで撮り終えており、これ以降は、自ら映画です、映画をやります、と種明かしをしているわけだから。
サスペンスやホラーが、あまりに非現実的な展開を、さも現実であるかのように作りだすことで、見るものにリアリティをもって迫りくる恐怖を体感させるのに対し、本作品の後半の展開は、映画であることが明るみになってしまうため、リアリティは欠如することになる。
しかしはからずも、このリアリティの欠如、動機もよくわからなくなってくる殺し合い、目的なき争い、他者とのコミュニケーションの不在・不通、解決策としての暴力、そしてクルマや銃と同じく、モノとしてあり、モノとして機能する登場人物たちの存在は、われわれの現実にあまりに酷似していることを教えてくれるのだ。
いや、前半でも述べたように、むしろ、現実が映画に近づいてしまっているのだ、ということにわれわれは気付かされるのである。
『CURE』や『カリスマ』を描いていた時代は、90年代である。90年代くらいまではまだ、ネット社会には突入してはいたものの、本格的な普及と、SNS社会への移行はさらに先の話である。
この時代はまだ、他者の「心の闇」というものがあった。
この「心の闇」が、「苛烈な欲望」を繋ぎとめるものであった。しかし、それがSNS社会に入った今、「心の闇」が蒸発してしまっている(國分)。あるいは、至るところにダダ洩れになっている(千葉)。
映画は光の芸術であるといわれる。だが、光あるところに影がある。闇がある。その光と闇を使い分けることで、映画は、現実の虚構、虚構の現実ともいうべき世界を作りあげている。巨匠と呼ばれる映画作家は、光の魔術師とも評される。黒沢清もまたこの光と闇の使い分けによって、恐怖や人間心理を巧みに描き出す。
この闇が、映画が映画であることと現実の境界をつなぎとめているのだともいえる。実際の現実の身体(現実)でもありながら、虚構でもあり、虚構でもありながら実際に演じている現場は現実であるという、極めて曖昧な境界を、映画は行き来するのだ。
黒沢清自身も、映画とは?という質問に対し、こう言っている。
闇は、本来見えるはずのもの、その姿形を隠すゆえに想像力を膨らませる。サスペンスやホラーは、そのような人間心理を利用しているわけだ。だが、映画から闇を取り除いたらどうなるか。「すべてが見えてしまっていることの滑稽さ」だけが残る。すべて見えてしまうことの滑稽さ、だがその滑稽さゆえの恐怖、ファルス的でもありナンセンスでもある世界の恐怖というものがある。
同様に、心の闇が蒸発してしまっている現代のわれわれの社会もまた、隠されているものは匿名性ということだけであり、むしろ明るみになって、心の闇がダダ洩れとなっている。すべてが明かされた闇とは、もはや闇が見えないということと同じである。闇が見えないゆえに、他者を想う、想像するということが欠落する。その想像力の欠如は、誰でもよい誰かに向けて、突然の刃となって現れる。かつては心の闇があること、あるいは他者のそれを想像することで抑えられていた感情が、そのまま、ダイレクトに向けられるのだ。
その刃は、吉井のような普通の人間の日常において、不条理なまでに唐突に向けられるかもしれず、その暴力性を伴うコミュニケーションは、誰かの死という形をむかえるまで終わらない時さえある。そう、延々と銃撃戦が繰り返され、敵が殲滅するまで終わらない、この映画のように。
問題は、現実における実際のこの「すべてが見えてしまっていることの恐怖」は、「見えてはいるが、見えないものとして振る舞っている」という問題を孕んでおり、それゆえに厄介である。SNS社会はそのいい例だ。感情がえげつないほどに可視化されているにも関わらず、それらの感情を発信する主は、誰であるかははっきりとしない。まさに「Cloud」なのだ。
雲は光あるところではっきりと見えるのに、実体はない。
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